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マーラー:交響曲第10番
ジョージ・セル指揮 クリーブランド管弦楽団 1958年11月1日録音をダウンロード
マーラー最後の私小説
この交響曲はマーラーにとっては最後の交響曲となった作品であり、そして、彼の死によって未完のままで終わった作品でもあります。
しかし、「未完」と言ってもその程度は様々で、シューベルトの「未完成」のように3楽章以降はほとんど何も残されていないものもあれば、ブルックナーの9番のように未完と言いながらも最後の第4楽章のスコアが大量に残されているものもあります。
それでは、マーラーの10番の「未完成」の程度はどの程度かというと、全5楽章構成が予定された作品で第1楽章だけがほぼ完成されている状態なのです。
パッと見た感じでは、その「未完成」の程度はかなり大きいように感じます。
しかし、ここで不思議に思うのは、第1楽章しか完成していないのに「全5楽章構成」が予定されていたことが分かっていることです。
マーラーの10番は第1楽章だけが残されているだけだと思われがちなのですが、実は、略式の総譜という形で全5楽章が最後まで繋がる形で残されているのです。もちろん、それはあくまでも略式ですからそのまま演奏できるような代物ではありませんが、それでも、マーラーがこの交響曲をどのような音楽にしたかったのかと言うことはほぼ確実にうかがうことができるのです。
この交響曲には、間違いなく、妻アルマとクロビウスの不倫が反映しています。
アルマへの愛と彼女の不貞、それに対する絶望と悲痛、そして最後に全てをゆるすことによる浄化という構想を略式総譜から読み取ることができるのです。ですから、残された略式総譜をもとにオーケストレーションを完成させれば、その作品はマーラー自身が構想した形にかなり近いものに仕上げることは可能なのです。
そして、現時点で補筆版の決定版と見なされているのが、イギリスの音楽学者デリック・クックによる「クック版」です。
このあたりの事情を何も知らないときは、この「クック版」というのは、第1楽章だけを根拠に残りの4楽章を勝手に書き足した何とも怪しげな補筆版だと思ったものです。知らないというのは恐いことです。(^^;
この「クック版」は、聞いてみれば確かにマーラーの音楽になっています。
晩年になるに従って、ますます私小説的な色合いを深めていったマーラーですから、いささか響きが薄いという事も、「そう言う音楽なんだ」と思えばそれほど気になりません。
もちろん、「原理主義者」にとっては、こういう「補筆版」というのは「気持ちの悪い」存在であること事実です。自らも作曲家でもあったバーンスタインなんかは、この「クック版」に対しては非常に冷淡であり見向きもしなかったのは何となく分かるような気はします。
しかしながら、このマーラーの10番は、たとえ第1楽章だけしか完成していなくても(それもまたオーケストレーションはマーラーの作品としては薄すぎるという指摘もあります)、作品全体を貫く構想が明確だという点では、その完成度はブルックナーの9番よりも高いと言える「未完成」作品です。
ですから、そこまで潔癖にならなくても、そこまで仕上げていたマーラーに敬意を表して、取りあえず全曲を演奏する形にまで持っていきたいという気持ちを拒否することはないような気もします。
もしかしたら、今後クック版に変わるさらに完成度の高い補筆版が登場する可能性もあります。有名どころでは、バルシャイによる補筆版などはかなりマーラーらしい響きになっています。
そうなれば、この作品を巡る評価も補筆版に対する変わってくる可能性は高いと言えそうです。
すっきりと見通しが良くなってしまっている
セルのマーラーをどのように評価するのかという問題は割合簡単に解が見つかります。それは、彼が残したマーラー作品の録音を眺めてみれば一目瞭然です。
<正規録音>
- Symphony No.10 - Adagio & Purgatorio - 1958/11/01
- Symphony No.4 - 1965/10/01,02
- Symphony No.6 - 1967/10/14 (Live)
<ライブ録音>
- Symphony No.9 - 1968/05/09
- Symphony No.4 - 1968/07/26
- Symphony No.6 - 1967/10/12
- Symphony No.9 - 1969/01/30, 02/01
- Symphony No.9 - 1969/02/06
- Symphony No.9 - 1968/05/09
- Das Lied von der Erde - 1967/04/21,(22,23)
- Das Lied von der Erde - 1970/02/05.07
つまりは、4番・6番・9番の3作品に集中しているのです。
ライブ録音はおそらくは定期公演でのものでしょうから、セルがスタジオできちんとセッション録音したのは4番と10番だけという事になります。彼が1958年に、何故に第10番という中途半端な作品を録音したのかは謎ですが、それでも、彼が共感できたのは「肥大化したマーラー」ではなくて、どこか「古典的な佇まいを持ったマーラー」であったことは疑いの余地はありません。
そして、その「古典的な佇まいを持ったマーラー」を、彼はまさに古典的な交響曲のように再創造して見せたのです。
マーラーという男の音楽は基本的には曲線路で構成されていて、それに対して「何故にここで曲がりくねらねばならないのだ?」という疑問を持ってはいけない音楽です。その、延々と続く鬱陶しいまでの曲線路を指定されたとおりに歩まねばならない音楽なのです。
しかし、そう言う類の音楽であっても、幾つかの作品はそう言う曲線路をすっきりとまっすぐのラインで再構築しようと思えばやれる、と言う作品があります。それが、まさにセルが集中的に取り上げた4番・6番・9番なのです。
セルという稀代の指揮者の手によって、鬱蒼として入り組んだマーラーという森が、未だ誰もみたことがないほどにすっきりと見通しが良くなってしまっているのです。
それが、セルの手にかかったマーラーです。
ですから、「それじゃもうマーラーじゃないでしょう」、と言う「正しい人」からすればあり得ない演奏と言うことになりますし、その評価は全く持って正しいと言うことになります。
でも、たまにはそう言う整理されきったマーラーも面白いね、と言う懐の広い人なら、それはそれで希少価値のある演奏と言うことになります。
とりわけ、お勧めなのは第6番「悲劇的」です。最後の鉄槌が振り下ろされる部分がこれほどまでに怖ろしく響く演奏は他には見あたりません。
また、4番と9番に関しても、まさに白昼夢のような不思議な浮遊感が漂う演奏に仕上がっています。後に9番は、セルの跡を継いでクリーブランド管の音楽監督に就任したブーレーズのマーラー演奏のネタ元がここにあったことをはっきりと示す演奏になっています。