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メンデルスゾーン:交響曲第3番 イ短調 作品56 「スコットランド」
アンタル・ドラティ指揮 ロンドン交響楽団 1956年7月3~5日録音をダウンロード
- メンデルスゾーン:交響曲第3番 イ短調 作品56 「スコットランド」 「第1楽章」
- メンデルスゾーン:交響曲第3番 イ短調 作品56 「スコットランド」 「第2楽章」
- メンデルスゾーン:交響曲第3番 イ短調 作品56 「スコットランド」 「第3楽章」
- メンデルスゾーン:交響曲第3番 イ短調 作品56 「スコットランド」 「第4楽章」
標題をつけるが好きだったみたいです(^^)
3番には「スコットランド」、4番には「イタリア」と副題がついています。
あまりポピュラーではありませんが、5番には「宗教改革」、2番にも「賛歌」と言う副題がついています。
そして、絶対音楽の象徴みたいに言われるシンフォニーですが、何故か副題がついている方が人気がでます。
もちろん、シンフォニーでなくても、副題がついている方がうんと人気がでます。もっとも、その副題も作曲者自身がつけたものもあれば、あとの時代で別人が勝手につけたものもあります。
中には、人気曲なのに名無しでは可哀想だと思ったのか、全く訳の分からない副題がついているものもあります。
あまりひどいものは次第に使われなくなって消えていくようですが、それなりに的を射ているものは結構通用しています。
そう言えば、すてきなメロディーを耳にしたときに、「この曲なんて言うの?」なんて聞かれることがよくあります。(よくあるわけないよな(^^;、時々あるほどでもないけれど、でも、たまーにこういう状況があることはあります。)
そんなときに知ったかぶりをして、「あーっ、これはね『ロッシーニの弦楽のためのソナタ』 第1番から第2楽章ですよ、いい曲でしょう!」等と答えようものなら、せっかくの和んだ空気が一瞬にして硬直していくのが分かります。
ああ、つまらぬ事を言うんじゃなかったと思っても、後の祭りです。
でも、そんなときでも、その作品にしゃれた副題がついていると状況は一変します。
「あーっ、これはねショパンの革命ですよ。祖国を失った悲しみと怒りをピアノにたたきつけたんですね、ふふふっ!」と言えば、実にかっこいいのである。
ところが、全く同じ事を言っているのに、「あーっ、これはねショパンのエチュードから第12番ハ短調、作品番号10の12です、祖国を失った悲しみと怒りをピアノにたたきつけたんですね、ふふふっ!」と答えれば、これは馬鹿である。
クラシック愛好家がこのような現実をいかに理不尽であると怒っても、それは受け入れざるを得ない現実です。
流行歌の世界でも、「ウタダの待望の新作「作品番号12の3 変ホ長調!」なんていった日には売れるものも売れなくなります。
もっともっと素敵な標題をみんなでつけましょう(^^)
そして、クラシック音楽にいささかいかがわしい副題がついていても目くじらをたてるのはやめましょう。
中には、そう言うことは音楽の絶対性を損なうといって「僕は許せない!」と言うピューリタン的禁欲主義者のかたもおられるでしょうが、そう言う方は「クラシック音楽修道院」にでも入って世俗との交流を絶たれればすむ話です。
いや、私たちは逆にどんどんすてきな副題をつけるべきかもしれません。
だって、今流れているこの音楽にしても、メンデルスゾーンの「交響曲第3番 イ短調 作品番号56」、と言うよりは、メンデルスゾーンの「スコットランド」と言う方がずっと素敵だと思いませんか。
それにしても、メンデルスゾーンは偉い、1番をのぞけば全て副題をつけています。有名なヴァイオリンコンチェルトも今では「メンコン」で通じますから大したもです。(うーん、でもこれが通じるのは一部の人間だけか、それに付け方があまりにも安直だ、チャイコン、ブラコンあたりまでは許せても、ベトコンとなると誤解が生じる。)
ピアノ曲集「無言歌」のネーミングなんかも立派なものです。
「夢」「別れ」「エレジー」あたりは月並みですが、「「眠れぬ夜に」「安らぎもなく」、「失われた幸福」と「失われた幻影」に「眠れぬままに」「朝の歌」と来れば、立派なものだと思いませんか。
アメリカというのは凄い国だった
リビング・ステレオのカタログを眺めてみると、メンデルスゾーンの交響曲に関しては以下の3名の指揮による録音が並んでいます。- 交響曲第3番 イ短調 作品56 「スコットランド」:アンタル・ドラティ指揮 ロンドン交響楽団 1956年7月3~5日録音
- 交響曲第4番 イ長調 作品90 「イタリア」:スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮 ミネアポリス交響楽団 1961年11月25日録音
- 交響曲第5番 ニ長調 作品107 「 宗教改革」:ポール・パレー指揮 デトロイト交響楽団 1958年3月21日録音
今となってはそれほど注目される録音ではないのでしょうが、あらためて聞き直してみると、そのとんがり具合にはいささか感動させられます。そして、そのとんがり具合もまた、三者三様で実に面白いのです。
「アンタル・ドラティ」「スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ」「ポール・パレー」と並べてみると、最も穏健な表現が期待されるのはドラティだと思うのですが、聞いてみて最も男性的な表現になっているので驚かされます。この「男性的」という言葉はかなり気を遣った言葉遣いであって「暴力的」と置き換えてもそれほど異論は出ないだろうと思うようなスタイルです。
ただし、この3つの中では録音年代が最も古いので、細部がそれほどクリアに録れていないという面も否定できません。しかし、それでもでっかいハンマーでぶん殴るような響きが充満していて驚かされます。
おそらく、「スコットランド」という愛称を持つこの憂愁に満ちた音楽の表現としては、この演奏は最大限の好意をもって見ても内角高めのかなりきわどいところをついたぎりぎりストライクと言うのが限界です。普通に見れば打者の胸元をえぐって仰け反らせる類のボールという感じでしょう。
ただし、これもまたいつも言っているように、あれこれの「スコットランド」を聞いてきていささか食傷気味だという人にとっては、その手のビーンボールもまた「かかってこい」感覚で面白いのかもしれません。
次に意外だったのは、この3人の顔ぶれならば最もシャープな表現を期待してしまうパレーが、結果としては最も正統派の表現に徹していることです。
第5番の「宗教改革」はこの3曲の中では最も甘さに溢れた音楽なのですから、その手の甘さを期待すれば肩すかしを食らうのですが、それでもエキセントリックな感じは全くしない範囲で堂々たるシンフォニーとして仕上げています。とりわけ、第3楽章の憂愁から最終楽章にかけての盛り上がりについては、ちょっと涙が出るほどの素晴らしさです。
そう言えば、彼とデトロイト響の代表作であるシューマンの交響曲全集では、最初の第4番(54年録音)では「ザッハリヒカイトという言葉が裸足で逃げていきそうなくらいの割り切れた演奏」だったのが、最後の第1番(58年録音)ではもう少し常識的な範疇に収まるようになっていました。
この「宗教改革」もシューマンの1番と同時期の録音ですから、考えてみれば当然なのかもしれません。
そして、最後の「Mr.S」ですが、これはもう怖ろしいまでのキレキレの「イタリア」です。
スクロヴァチェフスキは自分のことを基本的には「作曲家」だと認識していましたから、「表現したいことは全て楽譜に詰め込んまれている」というのが基本的なスタンスでした。ですから、そのスコアに書かれた音は全て聞き手に伝えるべき努力をするのが指揮者の仕事だというスタンスを絶対に崩さない人でした。そう言う彼の信念が最もよく表現されているのがこの「イタリア」の録音だと言えます。
彼の指揮者としてのキャリアは、セルの目にとまってクリーブランド管の客演に招かれた事がきっかけだったのですが、これを聞けば、セルの「イタリア」がきわめて叙情的で優美な演奏だったと思えるほどです。
まあ、それにしても、こういう3人を起用して、こんなにも多様性に満ちた録音を残していたこの時代のアメリカというのは、本当に凄い国だったんだ!!と、しみじみと感心させてくれます。(2016年11月9日:トランプ大統領誕生の日に記す)