クラシック音楽へのおさそい~Blue Sky Label~



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ブルックナー:交響曲第3番 ニ短調 「ワー グナー」


カール・シューリヒト指揮 ウィーンフィル 1965年12月2日~4日録音をダウンロード

  1. ブルックナー:交響曲第3番 ニ短調 「ワー グナー」「第1楽章」
  2. ブルックナー:交響曲第3番 ニ短調 「ワー グナー」「第2楽章」
  3. ブルックナー:交響曲第3番 ニ短調 「ワー グナー」「第3楽章」
  4. ブルックナー:交響曲第3番 ニ短調 「ワー グナー」「第4楽章」

ブルックナーというのは試金石のような存在でした。



吉田秀和氏が50年代に初めてヨーロッパを訪れたときのことを何かに書いていたのを思い出します。

氏は、「今のヨーロッパで聞くべきものは何か」とたずねると、その人は「まず何はおいてもクナッパーツブッシュのワーグナーとブルックナーは聞くべきだ」と答えます。そこで、早速にクナが振るブルックナーを聞いてみたのですが、これがまたえらく単純な音楽が延々と続きます。とりわけスケルツォ楽章では単調きわまる3拍子の音楽が延々と続くので、さすがにあきれてしまって居眠りをしてしまいました。ところが、再び深い眠りから覚めてもまだ同じスケルツォ楽章が演奏されていたのですっかり恐れ入ってしまったというのです。

そして、その事をくだんの人に正直に打ち明けると、その人は、「日本人にはベートーベンやブラームスが精一杯で、ブルックナーはまだ無理だろう」と言われたというのです。

50年という時の流れを感じさせる話ですが、ことほど左様にブルックナーの音楽を日本人が受容するというのは難しいことでした。
いや、歴史をふりかえってみれば、ヨーロッパの人間だってブルックナーを受容するのは難しかったのです。

あまりにも有名なエピソードですから今さらとも思われるのですが、それでも知らない人は知らないわけですから簡潔に記しておきましょう。

初演というのは怖いもので、数多のスキャンダルのエピソードに彩られています。その中でも、このブルックナーの3番の初演は失敗と言うよりは悲惨を通り越した哀れなものでした。
ブルックナーはこの作品をワーグナーに献呈し、献呈されたワーグナーもこの作品を高く評価したためにウィーンフィルに初演の話を持ち込みます。そして、友人のヘルベックの指揮で練習が始められたのですが、わずか1回で「演奏不可能」としてその話は流れてしまいます。
しかし、指揮者のヘルベックはあきらめず、ワーグナー自身も第2楽章のワーグナー作品の引用などを大幅にカットすることによって作品を凝縮させることで、再び初演に向けた動きが現実化し始めます。ところが、そんな矢先にヘルベックがこの世を去ってしまいました。
そこで、仕方なくブルックナー自身の指揮で初演を行うようになってしまったのです。

ブルックナーの指揮はお世辞にも上手いといえるようなものではなく、プロの指揮者のもとで演奏することになれていたウィーンフィルにとってはまさに「笑いもの」といえるような指揮ぶりだったようです。
そんな状態で初演の本番をむかえたわけですから演奏は惨憺たるもので、聴衆は一つの楽章が終わるごとにあきれ果てて席を立っていき、最終楽章が終わったときに客席に残っていたのはわずか25人だったと伝えられています。
そして、その25人の大部分もその様な酷い音楽を聴かせたブルックナーへの抗議の意志を伝えるために残っていたのでした。ウィーンフィルのメンバーも演奏が終わると全員が一斉に席を立ち、一人残されたブルックナーに嘲笑が浴びせかけられました。

ところが、地獄の鬼でさえ涙しそうなその様な場面で、わずか数名の若者が熱烈にブルックナーを支持するための拍手を送りました。その中に、当時17才だったボヘミヤ出身のユダヤ人音楽家がいました。
彼の名はグスタフ・マーラーといいました。
あまりにも有名なエピソードです。

この、なんだか訳の分からないブルックナーの音楽を日本に紹介する上で最も大きな功績があったのが朝比奈と大フィルとのコンビでした。
彼らは、マーラーブームやブルックナーブームがやってくるずっと前から定期演奏会でしつこく何度もブルックナーを演奏していました。そして、その無謀とも思える試みの到達点として1975年のヨーロッパ演奏旅行における伝説の聖フローリアンでの演奏が生まれます。

このヨーロッパ演奏旅行で自信を深めた彼らはその帰国後にジャンジャンという小さなレーベルで2年をかけてブルックナーの交響曲全集を完成させます。このレコードはその後「幻のレコード」として中古市場でとんでもない高値で取引されるようになり、普通の人では入手が困難になっていたのですが、数年前に良好な状態でCD化されてようやく私のようなものでも手元にも届くようになりました。

そして、手元に届いたジャンジャン盤のCDの中から真っ先にとりだして聞いてみたのがこのブルックナーの3番「ワーグナー」でした。

理由は簡単です。
私が生まれて初めて生で聞いたブルックナーが朝比奈&大フィルによるブル3だったからです。
そのときのコンサートの感動は今も胸の中に残っています。

クラシック音楽を聴き始めた頃の私にとって吉田大明神の文章はまさにバイブルでしたから、「ブルックナーというのは難しい音楽だ」という身構えた気持ちで出かけました。
ところが、朝比奈と大フィルが作り出す音楽には難しさや晦渋さなどは全く感じませんでした。それどころか、そこで展開された音楽はヨーロッパの大聖堂を思わせるような「壮麗」の一言に尽きるような素晴らしいものでした。

私はその一夜の経験ですっかりブルックナーが大好きになってしまい、その後次々とブルックナーのLP(CDではなくLPの時代でした)を買いあさるようになったのでした。
そんな思い出を懐かしみながら再生したジャンジャン盤のブル3はお世辞にも上手いとはいえない演奏でした。しかし、その演奏にはブルックナーへの深い愛と献身が満ちていました。
こういう演奏に技術的な批評など何の意味もありません。

これより上手いブルックナー演奏なら掃いて捨てるほどあります。ブルックナーに対する深い尊敬を感じさせる演奏も少なくはありません。
しかし、これほど深い献身を感じさせる演奏は私は知りません。
初演の舞台で嘲笑をあびながら一人孤独に立ちつくしたブルックナーが、それから100年を経た東洋の島国でこのような演奏がなされたことを知れば、どれほどの深い感謝を捧げたことでしょう。

そして、その様な朝比奈&大フィルのコンビとともにクラシック音楽に親しんでこれたことが、私にとっても最も幸福な思い出の一つとなっています。


見事に己の人生を下りきった

最晩年のシューリヒトはリウマチに苦しんでいて、指揮台に登場するときも杖を突きながらゆっくりゆっくりと歩を進めざるを得ない状況でした。そのリウマチがさらに悪化したのが1965年の夏で、あまりの痛さのために予定されていた演奏会を全てキャンセルせざるを得なくなります。結果として、コンサートでウィーンフィルを指揮したのは、その年のザルツブルグ音楽祭(8月6日)が最後になりました。
ちなみに、その時のプログラムはオール・モーツァルトでした。


  1. Symphonie D-Dur KV 181

  2. Symphonie g-Moll KV 550

  3. Symphonie C-Dur KV 425 Linzer



ちなみに、同じ年にジョージ・セルも音楽祭に登場してブルックナーの3番を指揮しています。(8月2日)


  1. Ludwig van Beethoven:Ouverture zu Goethes Trauerspiel Egmont op. 84

  2. Ludwig van Beethoven:Konzert fur Klavier und Orchester Nr. 4 G-Dur op. 58

  3. Anton Bruckner:Symphonie Nr. 3 d-Moll



シューリヒトはこのセルのブルックナーを聞いたのかどうか気になるところですが、おそらくは体調があまりよくなかったシューリヒトは聞かなかっただろうなと推測します。
なお余談ながら、この翌年にオザワが始めてこの音楽祭でウィーンフィルを指揮しています。


  1. Franz Schubert:Symphony No. 5 in B flat major

  2. Robert Schumann:Concerto for Piano and Orchestra in A minor Op. 54

  3. Johannes Brahms:Symphony No. 2 in D major Op. 73



しかし、その年の暮れに、奇蹟のように小康状態がやってきて、それを聞きつけたEMIのスタッフが駆けつけてきて録音をしたのがこのブルックナーの3番でした。EMIにしてみれば、ブルックナーの8番と9番で大成功を収めていただけに、続く交響曲も是非とも録音したかったのでしょう。
しかし、シューリヒトの夫人はこの録音によって夫の体調が再び悪化することを危惧するのですが、長く不遇な時期を過ごしたシューリヒトにしてみれば最後の最後に己の遺言を残すような思いでこの録音に取り組むことを決意します。

しかしながら、そうやって録音されたこのブルックナーの3番の評価は高くはありません。
この録音によって、シューリヒトは精根が尽き果てたかのように再び体調を悪化させ、激しい腰の痛みと呼吸困難、さらには心臓の機能低下で死線をさまようことになるのですが、そんな事とは関係なく評価は高くないのです。そう言う音楽の背景にあるあれこれと音楽そのものとの間には直接的な関係はないのですから、当然と言えば当然なのですが、それでも芸術家における上り坂と下り坂の問題に思いを馳せざるを得ないエピソードではあります。

日本という国は基本的にシルバーシート優先の国でした。これを書くとまたまた反発とお叱りを受けるのですが、芸術家といえども人間なのですから、そこには上り坂もあれば下り坂もあります。死ぬ直前まで経験の積み重ねによって深みと円熟味を増していくなどと言うのは幻想以外の何ものでもありません。
ところが、クラシック音楽の世界では、その様な頂点を通り過ぎた下り坂の時代を「枯れた」とか「円熟味を増した」等という意味不明の言葉で褒めそやすことが多いのです。老齢による運動機能によって自分が要求したいテンポさえ維持できず、集中力を維持し続けることができずに散漫になってしまう部分が頻出したような演奏を、「円熟味を増した悠然たるテンポによる枯れた世界」等と持て囃したのでは、一生懸命やっている若手は浮かばれません。

正直言って、ここでのシューリヒトは自分が思い描く音楽を実現するだけの集中力が維持できなくなっています。第3楽章のスケルツォは明らかにシューリヒトが望むテンポでないことも事実です。
ここにあるのはシューリヒトと言う指揮者の下りきった姿です。

しかし、その事を認めつつも、第2楽章の虚空の彼方を深沈としたまなざしで見つめ続けるような音楽は聞くものの心を打ちます。
それは小気味のよい切れのある快速球を投げ込んできた名投手が、その最晩年に全身全霊を傾けて投げ込んだ120キロにも満たない速球のようなものかもしれません。

つまりは、彼は見事に己の人生を下りきったのです。