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R.シュトラウス:交響詩「英雄の生涯」 作品40
フリッツ・ライナー指揮 シカゴ交響楽団 1954年3月6日録音をダウンロード
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冒頭部分があまりにも有名です
オーケストラによるオペラ
シュトラウスの交響詩創作の営みは「ドン・ファン」にはじまり(創作そのものは「マクベス」の方が早かったそうだが)、この「英雄の生涯」で一応の幕を閉じます。その意味では、この作品はシュトラウスの交響詩の総決算とも言うべきものとなっています。
「大オーケストラのための交響詩」と書き込まれたこの作品は大きく分けて6つの部分に分かれると言われています。
これはシュトラウスの交響詩の特徴をなす「標題の設定」と「主題の一致」という手法が、ギリギリのところまで来ていることを示しています。つまり、取り扱うべき標題が複雑化することによって、スッキリとした単一楽章の構成ではおさまりきれなくなっていることを表しているのです。
当初、シュトラウスがあつかった標題は「マクベス」や「ドン・ファン」や「ティル」のような、作曲家の体験や生活からははなれた相対的なものでした。その様なときは、それぞれの標題に見合った単一の主題で「つくりもの」のように一つの世界を構築していってもそれほど嘘っぽくは聞こえませんでした。そして、そこにおける主題処理の見事さとオーケストラ楽器の扱いの見事さで、リストが提唱したこのジャンルの音楽的価値を飛躍的に高めました。
しかし、シュトラウスの興味はその様な「つくりもの」から、次第に「具体的な人間のありよう」に向かっていきます。そして、そこに自分自身の生活や体験が反映するようになっていきます。
そうなると、ドン・ファンやティルが一人で活躍するだけの世界では不十分であり、取り扱うべき標題は複雑化して行かざるをえません。そのために、例えば、ドン・キホーテでは登場人物は二人に増え、結果としてはいくつかの交響詩の集合体を変奏曲形式という器の中にパッキングして単一楽章の作品として仕上げるという離れ業をやってのけています。
そして、その事情は英雄の生涯においても同様で、単一楽章と言いながらもここではハッキリと6つの部分に分かれるような構成になっているわけです。
それぞれの部分が個別の標題の設定を持っており、その標題がそれぞれの「主題設定」と結びついているのですから、これもまた交響詩の集合体と見てもそれほどの不都合はありません。
つまり、シュトラウスの興味がより「具体的な人間のありよう」に向かえば向かうほど、もはや「交響詩」というグラウンドはシュトラウスにとっては手狭なものになっていくわけです。
シュトラウスはこの後、「家庭交響曲」と「アルプス交響曲」という二つの管弦楽作品を生み出しますが、それらはハッキリとしたいくつかのパートに分かれており、リストが提唱した交響詩とは似ても似つかないものになっています。そして、その思いはシュトラウス自身にもあったようで、これら二つの作品においては交響詩というネーミングを捨てています。
このように、交響詩というジャンルにおいて行き着くところまで行き着いたシュトラウスが、自らの興味のおもむくままにより多くの人間が複雑に絡み合ったドラマを展開させていくこうとすれば、進むべき道はオペラしかないことは明らかでした。
彼が満を持して次に発表した作品が「サロメ」であったことは、このような流れを見るならば必然といえます。
そして、1幕からなる「サロメ」を聞いた人たちが「舞台上の交響詩」と呼んだのは実に正しい評価だったのです。
そして、この「舞台上の交響詩」という言葉をひっくり返せば、「英雄の生涯」は「オーケストラによるオペラ」と呼ぶべるのではないでしょうか。
シュトラウスはこの交響詩を構成する6つの部分に次のような標題をつけています。
- 第1部「英雄」
- 第2部「英雄の敵」
- 第3部「英雄の妻」
- 第4部「英雄の戦場」
- 第5部「英雄の業績」
- 第6部「英雄の引退と完成」
こう並べてみれば、これを「オーケストラによるオペラ」と呼んでも、それほど見当違いでもないでしょう
寸分のゆるみもない、戦う英雄像
この録音は演奏も素晴らしいのですが、商業ベースに乗った史上初めての「ステレオ録音」というアドバンテージも持っています。この録音にまつわる話は「こちら」で詳しくふれていますので、ここでは敢えて触れません。リヒャルト・シュトラウスの交響詩というのは、指揮者にとってもオーケストラにとっても腕の見せ所なので、その録音の数は膨大な量にのぼります。そして、この絢爛豪華な響きに彩られた作品を、多くの指揮者達は他との差別化を図るために様々なアプローチを試みてきました。
そんなアプローチの中でもっとも多くの人に受け入れられてきたのが、カラヤン&ベルリンフィルによる精緻にして豪華絢爛たる英雄像です。
しかし、それだけが全てではありません。
クレメンス・クラウスのようにウィーンフィルの美質を存分に生かして優美な英雄像を提示した人もいました。
メンゲルベルグのようにまるで酔っぱらった英雄みたいな姿を提示した人もいました。
さらには、オーマンディのように楽しくおとぎ話のようにこの交響詩を物語ってくれる人もいました。
そういう多様なアプローチを許すことこそが、リヒャルト・シュトラウスの「大きさ」を示しているのでしょう。
そして、ここでライナーが提示している英雄像はまさに黒い甲冑に身を固めたアーミーな英雄像です。カラヤンはオーケストラの機能を最終的には絢爛豪華さのために奉仕させていますが、ライナーは徹頭徹尾、寸分のゆるみもない、戦う英雄像に奉仕させています。第3曲の優美な「英雄の伴侶」もまた、それは戦う男を慕う女性になっています。
これが録音された1954年というのは、まさに2つの大戦を勝ち抜いて黄金の時代を謳歌しているアメリカの絶頂期でした。しかし、そこには「悪の帝国」との戦いが常に意識される中での反映だったのです。
そう思えば、この「英雄の生涯」はその様な社会においてもっとも受け入れやすい英雄像だったことは間違いありません。