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リスト:巡礼の年 第3年 S.163


(P)アルド・チッコリーニ 1961年12月5~8日録音をダウンロード

  1. Liszt:Troisieme annee, S.163 [1.Angelus! Priere aux anges gardiens]
  2. Liszt:Troisieme annee, S.163 [2.Aux cypres de la Villa d'Este I: Threnodie]
  3. Liszt:Troisieme annee, S.163 [3.Aux cypres de la Villa d'Este II: Threnodie]
  4. Liszt:Troisieme annee, S.163 [4.Les jeux d'eaux a la Villa d'Este]
  5. Liszt:Troisieme annee, S.163 [5.Sunt lacrymae rerum/En mode hongrois]
  6. Liszt:Troisieme annee, S.163 [6.Marche funebre]
  7. Liszt:Troisieme annee, S.163 [7.Sursum corda]

リストという不世出のピアニスとの有為転変が刻み込まれた音楽



リストの「巡礼の年」は、彼の20代から60代に至る音楽の遍歴が刻み込まれた作品集だと言われます。ただし、そう言われるからといって、リストがこの作品を20代から60代に至る長きにわたって書き続けたというわけではありません。
まず始めに、全体をざっと概観しておきましょう。こういう規模の大きな作品集というのは、最初に概観しておくことがとても大切です。


  1. 第1年「スイス」:1835年から36年にかけて作曲(24才~25才)→19曲からなる「旅人のアルバム」として1842年に出版→「旅人のアルバム」をもとに追加・改訂・編集を行って全9曲からなる作品集として1855年に出版

  2. 第2年「イタリア」:1838年より作曲が開始され1839年にはほぼ完成(27才~28才)→1858年に出版

  3. ヴェネツィアとナポリ(第2年補遺):1840年に作曲(29才)→1859年(48才)に2曲を改訂、1曲を追加して完成→1861年に出版

  4. 第3年:大部分の作品が1877年に作曲(65才)→1883年に出版



つまりは、20代から60代にわたって書き続けたといわれればその通りなのですが、実態としては作品の大部分は20代に書かれた作品であり、最後の「第3年」だけがポツンと離れた60代の作品なのです。しかし、その20代の作品には30代から40代のリストの手が加えられているのです。

ですから、非常にザックリとした言い方をすれば、第1年「スイス」は若きリストの清潔でスッキリとした音楽が聴けます。しかし、その事は、リストの作品に名人芸がもたらす陶酔感を期待するムキにはいささか不満が残る作品と言うことになります。
それに対して第2年「イタリア」こそは、もっともリストらしい作品集だと言えるでしょう。「ヴェネツィアとナポリ(第2年補遺)」も第2年「イタリア」と同じテイストが貫かれています。
そして、第3年は晩年のリストに特徴的な宗教的・禁欲的な雰囲気で彩られています。

と言うことで、作曲年代だけに限ってみれば大きな隔たりが存在しているのですが、音楽としてはリストという不世出のピアニスとの有為転変が刻み込まれていることには確かなのです。


巡礼の年 第3年

この作品は「巡礼の年」という同じタイトルを持ってはいても前作「第1年」「第2年」とはその性格を大きく変えています。それは、20代の若きリストがマリー・ダグー伯爵夫人とのスイスへの逃避行、およびイタリアでの滞在を反映した作品「第1年」「第2年」に対して、この「第3年」は僧職についた晩年のリストを反映した作品集になっているからです。
時間にしてみれば、「第1年」「第2年」と「第3年」の間には30年を超える隔たりがあります。そして、その時の隔たりはリストという音楽家の有り様を変えて行くには十分すぎるほどの重みがありました。

パリにおいて既にサロンの寵児であったリストはマリーとの逃避行をへながらも、40年代にはいるとピアノのヴィルトゥオーソとして揺るぎない地位を確立していきます。彼は各地において王侯貴族と変わらぬ待遇を受ける様になるのですが、それは同時にマリーにとってはリストとともに過ごす時間が少なくなっていくことを意味しました。マリーはその様なリストに対して自分のところに帰ってくれるように懇願するのですが、その懇願は次第に二人の間に不和を生み出し、34年には訣別することをお互いにが選択するに至ります。
しかし、この5才年上の教養豊かな女性と過ごした時間が、音楽家リストの骨格を作り上げたことは事実です。

リストは、マリーと別れた後、いよいよ精力的にピアノのヴィルトゥオーソとしての活動を行うのですが、やがてその消耗的な営みに疑問を感じ始めた時期にもう一人の女性と出会います。それが、ロシアのカロリーネ・フォン・ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人でした。
この大金持ちの夫人は一目でリストに魅了され、当座の資金として200万ルーブルとも言われる資産を持って駆け落ちをし、ヴァイマールに居を構えて同棲生活を始めます。リストもまた、これを一つの契機として「操り人形のようだ」ともらした「ピアノのヴィルトゥオーソ」としての活動を止めてしまい、この後は公開の場での演奏活動をほとんど止めてしまいます。

そして、カロリーネはこの後リストを公私にわたって完璧にコントロールしていくようになります。
彼女は放縦であり女性好きなリストを徹底的に躾けるとともに、偉大な音楽家としてのリスト像を作りあげていくために細心の注意を払っていきます。
世上言われたマリーへの悪評も、そのかなりの部分がカロリーネのコントロール下で「事実」とされてしまったことは否定できないようです。そして、リストもまたカロリーネに対しては意外なほど従順であり、ピアノのヴィルトゥオーソを引退してからはヴァイマールの宮廷楽団の指揮者として、さらには「偉大な音作曲家」に相応しい「管弦楽の大作」の創作に力を傾注していきます。

しかし、カロリーネがのぞんだリストとの結婚は、過去の結婚の破棄、つまりは離婚が成立しないためになかなか実現しませんでした。その背景には膨大な資産の相続に関わる難題があったようなのですが、その難題を一気に解決すべくカロリーネはローマに向かうことになります。
つまりは、ヴァチカンに乗り込んで法王から「神との契約」としての「過去の結婚」を御破算にしてもらおうとしたのです。

しかし、リスト一人をヴァイマールに残してカロリーネ一人がローマに向かったのは大きな判断ミスでした。
カロリーネの思惑に反して法王は夫人の離婚は認めず、リストもまたカロリーネがいなくなったのいいことに、あっという間に昔の放縦な生活に戻ってしまい、その放縦な生活はリストの肉体と精神を蝕んでしまったのです。

カロリーネはそんなリストをローマに呼び寄せ、彼に聖職者になることを強く勧めます。最初は躊躇ったリストもカロリーネの執拗な勧めにあらがえず、ついに1865年、54歳の時に下級聖職者に列せられるのです。
それは彼自身の手による主体的な決定と言うよりは、流れ行く己の人生の流れに身を任せた「諦め」にも似た心情がもたらした決定でした。その意味で、この時をもってリストの「晩年」は始まるという批評家もいます。
確かに、この後もリストは「精力的」にヨーロッパの各地をまわり、少なくない作品も生み出すのですが、それは「活力」に満ちた壮年期までのリストとは全く異なる音楽でした。

そして、この「巡礼の年 第3年」は、その様な「晩年」も極まった1877年に集中的に書かれているのです。
自らの作品が「芸術の否定である」と批判されるようにもなり、周囲からの理解も得られないなかで友人に対して「絶望的な悲しみに襲われる」と述べるような精神状態のなかで書かれた作品なのです。

ですから、人によってはこのような晩年の作品を「泣きの入った」ことによってようやくにして到達したリスト最高峰の作品と評する人もいます。それは同時に、華やかで耳あたりの良い壮年期までの作品を一段低く見る、もしくはこの時のリストに浴びせかけられた「芸寿の否定」と同じ立場によるものです。

この根っこには、聞いて楽しく分かりやすい音楽は価値が低く、何度聞いても和掛けの分からないような音楽ほど価値が高いというスノッブな価値観が横たわっています。もっとも、そう考えるのは私であって、最後の判断はそれぞれの聞き手が為すべき事ではあります。


  1. アンジェラス、守護天使への祈り:アンジェラスとは朝・昼・夜に行う「受胎告知」の祈り、またはその時を知らせる鐘のことです。冒頭から調性が曖昧なのは晩年のリストの特徴なのですが、最後まである種の不安定な感覚がつきまとう音楽です。

  2. エステ荘の糸杉に~哀歌(1): ベネディクト派の修道院であったものを豪華な別荘と美しい庭園に改築したのが「エステ荘」でした。リストはこの別荘をホーエンローエ枢機卿から提供されていて、冬の間はここで過ごすことを常にしていました。「糸杉」は西洋では「死」や「喪」を象徴するものとされていて、そこには憔悴しきったリストの晩年が反映しています。

  3. エステ荘の糸杉に~哀歌(2):彼は友人に宛てて「糸杉の下で過ごしているが、他のことが何も考えられないほどに、この古い糸杉の幹のことで頭がいっぱいになって離れない。私は不変の葉の重さに耐えながら、枝が歌って泣くのを聞いた。最終的にそれらを五線紙に書き留めた」と記しています。ただし、音楽は最後にはいささか美しく終わります。

  4. エステ荘の噴水:作品集のなかではもっとも有名な作品なのですが、この作品の中間部にも「わたしが与える水はその人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」という福音書からの引用が標題としてつけられています。どこまでが真実かは分かりませんが、この作品を始めて聞いたこの曲を聴いたドビュッシーはそのあまりに印象主義的な響きに顔色を失ったというエピソードが伝えられています。

  5. ものみな涙あり ハンガリーの旋法で: ハンガリー革命(1848~849年)の犠牲者へ捧げた「ハンガリー哀歌」という作品だったものをタイトルを変えてこの作品集に収録したものです。

  6. 葬送行進曲: 1867年に銃殺されたメキシコ皇帝マクシミリアン1世の追悼のための葬送音楽で、皇帝の死後すぐに書かれた作品だと言われています。

  7. 心を高めよ:属音の静かな連打で始まる音楽で、全体的に宗教的で厳かな雰囲気でこの作品集を締めくくっています。



若き時代の刻苦精励

「リストの作品が少ない!!」とよく言われてきました。
なかには、「ショパンの作品はあんなにたくさんアップしているのに、リストの作品は本当に少ない、さては奴はリストを名人芸だけのつまらぬ音楽と誤解しているんだろう」等と言われたりもしました。

しかし、これはどこかで一度書いたような気はするのですが、リスト作品があまりアップされていないのはその様な「評価」にまつわるような難しい話ではなくて、そもそもパブリック・ドメインとして公開できる音源が少ないという極めて単純にして明解な理由に基づくものなのです。

興味のある方は調べてみれば納得していただけると思うのですが、ショパンの作品は「ピアニスト」を商売にしている音楽家ならば必ず録音しています。しかし、リストを録音している「ピアニスト」となると急に数が減ってしまいます。その背景にはリストの音楽に対する「評価」もあったのでしょうが、それよりもリストの作品をリストらしく演奏することの困難さも大きく影響していたと思われます。

そんな歴史的背景を知ってみると、50年代からリストの作品を積極的に取り上げていたチッコリーニの「やる気」には感心させられます。
彼は、リストを代表するピアノ作品である「巡礼の年」を54年と61年の2回にわたって録音しています。

チッコリーニという人は非常に息の長い演奏家でした。
2015年に89才でこの世を去るのですが、その直前まで現役のピアニストとして活動をしていました。晩年は日本とも縁が深く、毎年のように来日公演を行っていて、90才を迎える2016年にも公演が予定されていたほどです。
ピアニストには長命の人が多く、その最期まで現役として活動を続ける人は多いのですが、その少なくない部分が「誰か止める人はいないのか!」と言いたくなるような醜態をさらすことは少なくありません。しかし、チッコリーニはそう言う中にあって、疑いもなく「希有な例外」だったようです。
私は彼のコンサートに足を運んだことはないので人の受け売りの域を出ないのですが、それでも多くの人が晩年のチッコリーニの変貌ぶりに驚き、そして称賛を惜しまないのです。

若い頃のチッコリーニは一言で言えば「明晰」なピアニストでした。その事は、彼のファースト・レコーディングだったスカルラッティのソナタ集の時から明確に刻印されていました。
音色はどこまでもからりと乾いていて、一つ一つの音はまるでチェンバロのようにころころとよく転がるのです。そして、彼の名刺代わりだったサティなんかを聞くと、いつもパリッとした粋な雰囲気が漂っていました。

ただ、それはそれなりに美質としては感じながらも、時によっては、そして作品によってはもっとどろっとした「情念」みたいなものが欲しくなるときはありました。
ここで聞けるリストもまたある意味ではあっけらかんとしたクリアな響きと強固な形式感によって貫かれています。トレモロなんかも、驚くほど一音一音が明確に聞こえるので、そこからはふわっとした幻想的な感覚はほぼ皆無です。
しかし、それこそが若い時代のチッコリーニなんですね。

彼はこういう音楽を地道にやり続けることで、結果として自分の音楽の根っこと土台を強固なものにしていきました。そして、その事が年をとって衰えが出てきたときに、その衰えに相応しい音楽にチェンジする余裕を与えたのでしょう。
晩年のチッコリーニの音楽が、若い頃と較べて本当に素晴らしいものだったのかは私には分かりません。しかし、それは「醜態」でなかったことだけは確かなようですし、その「変貌」を遂げた音楽が多くの人を魅了したことも事実のようです。
しかし、晩年の彼の音楽を特徴づけるふんわりとした響きの底には、若き時代にクリアな響きを駆使したテクニックがあってこその話であることは間違いないことです。

これを若手の連中が下手に真似して得意になっていると、後で待っているのは悲惨な老後と言うことになるのでしょう。
年を経て飄々と事を成し遂げられるためには、若き時代の刻苦精励こそが必要だと言うことを、このリストの録音は教えてくれるような気がします。