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ベートーベン:ピアノソナタ第30番 ホ長調 作品109
(P)クラウディオ・アラウ 1965年10月録音をダウンロード
ピアノ作品の作曲には制約が多すぎる
ベートーベンのピアノ作品の最後を飾るのが一般的に「後期ソナタ」と呼ばれる3つのソナタです。
- ピアノソナタ第30番 ホ長調 作品109(1820年作曲)
- ピアノソナタ第31番 変イ長調 作品110(1821年作曲)
- ピアノソナタ第32番 ハ短調 作品111(1822年作曲)
最後のハ短調ソナタを作曲した後でもベートーベンには5年の歳月があったのですが、彼はピアノ作品の作曲には制約が多すぎると述べてこの分野から去ってしまいます。この言葉をどのように受け取るのかは難しいのですが、考えるきっかけとしては作品101のイ長調ソナタ(28番)と「ハンマークラヴィーア」と題された作品106の巨大なソナタ(29番)との関連性を見ればいいのかもしれません。
聞いてみれば分かるように、後期ソナタが持っているある種の幻想性に近いのはイ長調ソナタの方です。
それに対して、「ハンマークラヴィーア」の方はアダージョ楽章の深い幻想性に惑わされるのですが、音楽全体の形は「熱情」や「ワルトシュタイン」に通ずる構造を持っているように聞こえます。言葉は悪いかもしれませんが、作品101のイ長調ソナタから見れば、いささか「先祖帰り」したような作品になっています。
しかし、それは言葉をかえれば、ベートーベン自身にとって一度前に進み出した歩みを留めて過去の自分が辿ってきた道を総決算するような営みだったのかもしれないのです。そして、その総決算によってもう一度歩みを前に踏み出したのが、これらの後期ソナタだったと言えるのです。
だとすれば、いかにベートーベンといえども、3つの後期ソナタにおけるチャレンジはピアノという楽器を用いた音楽の一つの行き止まりだったはずです。
その、ある意味での「やりきった感」が「ピアノ作品の作曲には制約が多すぎる」という言葉になり、彼の差王咲く活動の中心が弦楽四重奏曲の世界に収斂していったのでしょう。
その証拠に(と言うのもおかしないいかですが)、これらのソナタは当時の聴衆にはなかなか受け入れられなかっただけでなく、その後1世紀にわたって広く受け入れられることはなかったのです。これらの音楽がコンサートのメインピースとなるのは20世紀になるのを待たなければならなかったのです。
そして、創作という分野においても、彼の中期の作品は多くの作曲家に影響を与えたのですが、この後期ソナタをかみ砕くことができた作曲家はほとんどいなかったのです。
その結果として、チャールズ・ローゼンはこれらの作品は「聞き手の積極的な参加」が求められる音楽だと述べています。つまりは、構造的に極めて複雑であり、ベートーベンが果敢に挑戦した実験的な営みを聞き分ける能力が聴衆に求められるということです。
言葉をかえれば、これらの作品はその幻想的な雰囲気に浸っているだけでも十分かもしれないのですが、もう少しベートーベンのチャレンジを聞き分けることができれば、より一層、これらの作品の凄さが分かると言うことなのでしょう。
ピアノソナタ第30番 ホ長調 作品109(1820年作曲)
第1楽章の出始めは、おかしな喩えかもしれませんが、舞台に登場したピアニストがピョコンと一礼するとそそくさとピアノに向かい、拍手が未だ鳴りやまないうちに演奏始めたような雰囲気がただよいます。
序奏もなしに主題が提示され、あっという間に属調に転調されて事が次へと進んでいきます。その驚くほどのあっさりとした進行は、フィナーレで変奏主題がもう一度帰ってきてあっさりと終わるのと一対を為しているように聞こえます。
つまりは目立つことなく控えめに始まり、目立つことなくひっそりと終わるという一対です。
しかし、チャールズ・ローゼンも語っているように、その目立たない両端部は控えめに見えながらも非常に多くのものを演奏者に求める部分でもあります。
開始部における弱拍の効果を出しながら右手の2声を音色の変化も意識しながら演奏するのはかなり難しいようです。
最後の部分もあっさりと見えながらもバス声部が追加されてより重厚な響きで歌う(cantabile)事が要求されているのです。
このあたりをどれくらい上手く処理しているかで演奏者がどれほどしっかりと物事を考えているかが見えてくるのかもしれません。
ただし、この作品で一番の聞き所は変奏曲形式で書かれたアンダンテ楽章でしょう。この楽章は6つの変奏から成り立っているのですが、「molto cantabile ed espressivo」となっているように「より表情豊かに歌う」ことが求められています。しかし、その背後には「テンポは変えては駄目」というベートーベンの指示も読み取る必要があります。表情豊かに歌うことに足下をすくわれてテンポが揺れるようでは駄目なのです。
また、この楽章の頂点が第4変奏にあることは明らかなのですが、この遅いテンポを際だたせるために第3変奏が大きな役割を果たしています。同じく、第5変奏の複雑な対位法が最後の第6変奏の簡素な出だしが強く印象づけられます。
つまりは、ベートーベンの実験精神はその様な細部に至るまで「音楽の構造」を突き詰めることにあったようです。
ただし、私のような凡には、ローゼン先生の解説を読んでも、そしてそれをもとにスコアとにらめっこしても、なかなか理解できないのが辛いところです。
- 第1楽章:Satz Vivace, ma non troppo
- 第2楽章:Prestissimo
- 第3楽章:Andante molto cantabile ed espressivo
細部を蔑ろにすることなく音楽を進めていくアラウ
バックハウスを取り上げた時に、ほぼ同時期にソナタの全曲録音を行っていたこともあって、比較のためにアラウを取り上げました。その比較の中であれこれ述べたのですが、私の言だけでは一方的すぎますから実際の音源もアップしておきます。アラウはよく「コンプリート魔」と言われるのですが、このベートーベンのソナタに関しても2度全曲録音を行っています。
一つめが1962年から1966年にかけて録音された「DECCA盤」です。
二つめが、1984年から1990年にかけてデジタル録音された「Philips盤」です。
そして、これ以外に1956年から1960年にかけてEMIで10曲(NO.7,21,22,23,24,26,28,30,31,32)の録音を残しています。
不思議なのは、60年代の旧全集は何度も再発されていますし、50年代のEMIへの録音も簡単に入手できるのに、最新のデジタル録音による新全集が現在はほとんど入手困難なことです。資本主義の世の中ですから、裏を返せばアラウの古い録音を求める人はいても最新のデジタル録音を求める人はあまりいない証左と言えるのでしょう。
そして、それはアラウというピアニストに対する一定の評価を示しているとも言えます。
この関係はバックハウスの新旧の全集にも言えるのかもしれません。
指もしっかり回って覇気溢れる旧全集と、いささかへたれて来た中で勇を鼓して必死に取り組んだ新全集と言えば言葉がきつすぎるでしょうか。
ただ一つ違うところがあるとすれば、バックハウスの旧全集はモノラル録音だったのに対して、アラウの旧全集は「DECCA」による優秀なステレオ録音だったと言うことです。さらに言えば、デジタル録音の方はアナログからデジタルへの移行期と言うこともあって、録音エンジニアによって音質のばらつきがかなりあることも指摘しておく必要があるでしょう。
バックハウスならば「旧全集がいいんだけど音質がね・・・」と言って新全集に手が伸びる人はいるでしょうが、アラウの場合は音質の問題で旧全集に不満を感じることは全くありません。逆に、音質に関しては部分的にはデジタル録音の方に不満を感じる人も多くいるはずです。
この録音と音質をめぐる問題が新全集とってには辛いところでしょう。
しかし、あのポツリ、ポツリという独白のようなソナタも年を経ればそれほど悪くない面もあるので、できれば再発して欲しいものだと思います。
と言うことで、この後期ソナタのアラウの録音です。
聞けば分かるように、テンポ設定はバックハウスとは真逆です。バックハウスほど速いテンポで弾いている演奏は少ないのですが、このアラウほどに遅いテンポで演奏してるピアニストも少ないはずです。
このアプローチは新全集においてもそれほど大きな差はないようです。
例えば、作品111のハ短調ソナタの第2楽章などでは、ここぞと言うところにくるとさらにがくんとテンポを落として入念に歌い上げます。
ただしそんなテンポの切り替えを「あざとい」と感じることがないのがアラウらしいと言えばアラウらしいです。
基本的には生真面目なピアニストですから、そうやってテンポが落ちるところはべートーベンの思考を丹念に確認しながら一歩ずつ前に進んでいるという感じです。
当然の事ながら、テクニックの衰えは未だ来ていない時期ですから、バックハウスの新全集のように細かい部分を曖昧に弾きとばしてしまうと言うことはありません。
ただし、そうでありながらも、何故か聞き終わった後にどこか平板な演奏だったという印象が残ってしまうのです。
確かに、この後期ソナタは中期のソナタとは違って交響的に、つまりは構築的に響かせることを狙ってはいないので、それはそれでいいのかもしれません。
逆に、バックハウスのような音楽の作り方の方が、そう言うベートーベンの方向性からはずれているのでしょう。
しかし、聞き終わった後に立派な音楽を聞かせてもらったと感じるのは、私の場合はやはりバックハウスの方なのです。
とは言え、これがアラウの表現であり、一つ一つの細部を蔑ろにすることなく丹念に確かめながら音楽を進めていくという「アラウのあるがまま」を受け入れることが必要なのでしょう。それに、この「DECCA」録音は本当に素晴らしいですから、このピアノの響きを楽しめるだけでも値打ちがあるというものです。