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シューベルト:交響曲第7(8)番 ロ短調 「未完成」 D759
レナード・バーンスタイン指揮 ニューヨークフィル 1963年3月27日録音をダウンロード
わが恋の終わらざるがごとく・・・
この作品は1822年に作曲をされたと言われています。
シューベルトは、自身も会員となっていたシュタインエルマルク音楽協会に前半の2楽章までの楽譜を提出しています。
協会は残りの2楽章を待って演奏会を行う予定だったようですが、ご存知のようにそれは果たされることなく、そのうちに前半の2楽章もいつの間にか忘れ去られる運命をたどりました。
この忘れ去られた2楽章が復活するのは、それから43年後の1965年で、ウィーンの指揮者ヨハン・ヘルベックによって歴史的な初演が行われました。
その当時から、この作品が何故に未完成のままで放置されたのか、様々な説が展開されてきました。
有名なのは映画「未完成交響楽」のキャッチコピー、「わが恋の終わらざるがごとく、この曲もまた終わらざるべし」という、シューベルトの失恋に結びつける説です。
もちろんこれは全くの作り話ですが、こんな話を作り上げてみたくなるほどにロマンティックで謎に満ちた作品です。
前半の2楽章があまりにも素晴らしく、さすがのシューベルトも残りの2楽章を書き得なかった、と言うのが今日の一番有力な説のようです。しかし、シューベルトに匹敵する才能があって、それでこのように主張するなら分かるのですが、凡人がこんなことを勝手に言っていいのだろうか、と、ためらいを覚えてしまいます。
そこで、私なのですが、おそらく「興味」を失ったんだろうという、それこそ色気も素っ気もない説が意外と真実に近いのではないかと思っています。
この時期の交響曲は全て習作の域を出るものではありませんでした。
彼にとっての第1番の交響曲は、現在第8番と呼ばれる「ザ・グレイト」であったことは事実です。
その事を考えると、未完成と呼ばれるこの交響曲は、2楽章まで書いては見たものの、自分自身が考える交響曲のスタイルから言ってあまり上手くいったとは言えず、結果、続きを書いていく興味を失ったんだろうという説にはかなり納得がいきます。
ただ、本人が興味を失った作品でも、後世の人間にとってはかけがえのない宝物となるあたりがシューベルトの凄さではあります。
一般的には、本人は自信満々の作品であっても、そのほとんどが歴史の藻屑と消えていく過酷な現実と照らし合わせると、いつの時代も神は不公平なものだと再確認させてくれる事実ではあります。
勢いのある鋭角的な演奏
非常に勢いのある、ある意味では「鋭角的」な「未完成に」になっています。その一番の理由は、「楽譜」に示されている「アクセント」をかなり律儀に、そして強めに演奏しているからでしょう。
よく知られた話ですが、シューベルトはアクセントを長めに記す癖がありました。ですから、昔はそれらが全てディミヌエンドに見えてしまったようなのです。
アクセントとディミヌエンドでは角を立てるところが全部丸め込まれてしまうんですから、音楽の雰囲気は全く別物になってしまいます。
そして、そういう「美しい誤解」がもたらした最上の演奏がワルター&ウィーンフィルによる1936年の録音・(Flacファイル)でした。
音楽を「正しい、正しくない」という二分法で評価すれば「論外」の演奏と言うことになります。今はそういう「美しい誤解」は許されない時代になってしまいましたから、何があっても絶対に聞くことのできないタイプの演奏です。
しかし、実際にそのワルターの演奏を聞いてみればシューベルトの指示に従った「正しい演奏」にはない魅力があり。率直に言ってしまえばそう言う「正しい演奏」よりも魅力があると感じてしまう部分があるのは、実に持って困った話なのです。
ですから、録音が古いと言うことで敬遠せずに、一度は聞く値打ちのある演奏です。
このバーンスタインの演奏はそう言う「昔からの伝統的な演奏スタイル」とは真逆のアプローチです。
当然の事ながらアクセントはアクセントとして演奏しているのですが、そのアクセントはかなり強めにかけているように聞こえます。そして、金管群も強めに鳴らされていて、それに対して弦楽器群はいささか控えめなところがあるので、結果として聞き手には「鋭角的」な印象を与えるのでしょう。
ただし、そう言う細かい部分だけを取り上げて文章にしてしまうと何かエキセントリックな演奏という印象を受けてしまうのですが、実際は勢いの良さは感じるものの全体としては至極真っ当な演奏です。何か受けを狙うようなあざといことは一切していませんから、この勢いの良さこそがは若きバーンスタインにとってのシューベルトであり、聞き手はそれを彼の表現として受け入れるだけです。
しかし、我が儘な聞き手として一つだけ注文をつけさせてもらえば、シューベルトを特徴づける半音階転調がもたらす微妙な光と影の交錯するようなニュアンスがいささか希薄な感じがす事です。
ただし、そう言うことは十二分に分かっていながら、それでも古典派のシンフォニーとしてきちんと造形する方に意を注いだのでしょうから、結局もそれも含めてバーンスタインの表現と言うことなのでしょう。