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モーツァルト:交響曲第39番 変ホ長調 K.543


カール・ベーム指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 1966年2月録音をダウンロード

  1. モーツァルト:交響曲第39番 変ホ長調 K.543「第1楽章」
  2. モーツァルト:交響曲第39番 変ホ長調 K.543「第2楽章」
  3. モーツァルト:交響曲第39番 変ホ長調 K.543「第3楽章」
  4. モーツァルト:交響曲第39番 変ホ長調 K.543「第4楽章」

いささか影の薄い作品なのですが・・・



「後期三大交響曲」という言い方をされます。
それらは僅か2ヶ月ほどの間に生み出されたのですから、そう言う言い方で一括りにすることに大きな間違いはありません。しかし、この変ホ長調(K.543)の交響曲は他の2曲と較べると非常に影の薄い存在となっています。もちろん、その事を持ってこの交響曲の価値が低いというわけではなくて、逆にト短調(K.550)とハ長調(K.551)への言及が飛び抜けて大きいことの裏返しとして、その様に見えてしまうのです。

しかし、落ち着いて考えてみると、この変ホ長調の交響曲と他の二つの交響曲との間にそれほどの差が存在するのでしょうか?
確かにこの交響曲にはト短調シンフォニーの憂愁はありませんし、ハ長調シンフォニーの輝かしさもありません。
ニール・ザスローも指摘しているように、こ変ホ長調というフラット付きの調性では弦楽器はややくすんだ響きをつくり出してしまいます。さらに、ザスローはこの交響曲がオーボエを欠いているがゆえに、他とは違う音色を持たざるを得ないことも指摘しています。

つまりは、どこか己を強くアピールできる「取り柄」みたいなものが希薄なのです。

しかし、誰が言い出したのかは分かりませんが、この交響曲には「白鳥の歌」という言い方がされることがありました。しかし、それも最近ではあまり耳にしなくなりました。

「白鳥の歌」というのは、「白鳥は死ぬ前に最後に一声美しく鳴く」という言い伝えから、作曲家の最後の作品をさす言葉として使われました。さらには、もう少し拡大解釈されて、作曲家の最後に相応しい作品を白鳥の歌と呼ぶようになりました。
当然の事ながら、この変ホ長調の交響曲はモーツァルトにとっての最後の作品ではありませんし、「作曲家の最後に相応しい作品」なのかと聞かれれば首をかしげざるを得ません。
今から見れば随分と無責任で的はずれな物言いでした。

ならば、やはりこの作品は他の2曲と較べると特徴の乏しい音楽と言わざるを得ないのでしょうか。
しかし、実際に聞いてみれば、他の2曲にはない魅力がこの交響曲にあることも事実です。しかし、それを頑張って言葉で説明することは「モーツァルトの美しさ」を説明することにしか過ぎず、結果として「美しいモーツァルト」を見逃してしまうことに繋がります。

ただ、そうは思いつつ敢えて述べればこんな感じになるのでしょうか。

まずは、第1楽章冒頭のアダージョはフランス風の序曲であり、その半音階的技法で彩られた音楽の特徴がこの交響曲全体を特徴づけています。そして、この序曲が次第に本体のアレグロへの期待感を抱かせるように進行しながら、その肝心のアレグロが意外なほどに控えめに登場します。そして、ワンクッションおいてから期待通りの激しさへと駆け上っていくのですが、このあたりの音楽の運び方は実に面白いです。

続く第2楽章は冒頭のどこか田園的な旋律とそこに吹きすさぶ激しい風を思わせるような旋律の二つだけで出来上がっています。この少ないパーツだけで充実した音楽を作りあげてしまうモーツァルトの腕の冴えは見事なものです。

そして、この交響曲でもっとも魅力的なのが続くメヌエットのトリオでしょう。これは、ワルツの前身となるレントラーの様式なのですが、その旋律をクラリネットに吹かせているのが実に効果的です。

しかしながら、この交響曲を聞いていていつも物足りなく思うのがアレグロの終楽章です。
これは明らかにハイドン的なのですが、構造は極めてシンプルで、単一の主題を少しずつ形を変えながら循環させるように書かれています。そして、その循環が突然絶ちきられるようにあっけなく終わってしまうので、聞いている方としては何か一人取り残されたような気分が残ってしまうのです。

ザスローはこれをコルトダンスの形式に従ったある種の滑稽さの表現だと書いていて、それ故にこの部分はある程度の「あくどさ」が必要だと張しています。つまりは、モーツァルトの作品だと言うことで上品に演奏してしまうと、この急転直下がもたらすユーモアが矮小化されるというのです。
なるほど、そう言われれば何となく分かるような気がするのですが、ほとんどの演奏はこの部分で期待されるあくどさを実現できていないことは残念です。

交響曲第39番 変ホ長調 K.543


  1. 第1楽章:Adagio; Allegro

  2. 第2楽章:Andante con moto

  3. 第3楽章:Menuetto e Trio

  4. 第4楽章:Allegro




美しい花がある。花の美しさと言うようなものはない。

ベーム&ベルリンフィルによるモーツァルトの交響曲はパブリックドメインになるたびにアップしていると思っていたのですが、最初の2曲だけをアップして、その後完全に失念してしまっていたようです。
それは言葉をかえれば、私の中のベームの立ち位置がそれだけ下がっていることの証拠でもありますし、さらに言えばこういう明らかな「落ちこぼし」があると「どうしてアップしないのですか?」とメールをいただいたりもするのですが、このベームの録音に関してはそう言うことも一切ありませんでした。

吉田秀和がベームの訃報に接して「ベームは二度死んだ」と語って物議をかもしたのは有名なエピソードですが、この「現実」を見る限りはその指摘は正しかったのかもしれません。
しかし、この数年の動きを見てみると、彼の録音がボックス盤という形でポチポチと復刻されてきています。
そして、このベルリンフィルとのモーツァルト交響曲全集も廃盤になることなくカタログには残り続けてきたようです。

そう言う意味では、このあたりでもう一度ベームという指揮者の音楽を振り返ってみるのも悪くはないのかもしれません。
と言うことで聞き直してみて感じたことは、当然と言えば当然なのですが(^^;、ハフナー(35番)とプラハ(38番)をアップしたときに感じたのとほぼ同じでした。

音楽の造形ががっちりとして荘重なたたずまいだったのも記憶の通りだったのですが、オケの響きは重くもなければ鈍くもありません。
同時代のクレンペラーやヨッフムのモーツァルトは今の耳からすれば「鈍重」と言わざるを得ないスタイルだったのですが、ベームのモーツァルトははるかに引き締まっています。

また、オケの響きは非常に透明感が高く、ワルターのように低声部を強調することもないので、各声部の見通しがよくて、当時としては「現代的で新しいスタイル」の演奏だったのだろうなと思わせるものがあります。
つまりは全体としては非常によくできた演奏なのです。

K.550のト短調シンフォニーはロマン主義的な情緒に引っ張られる事なく端正な佇まいをしています。今なら、どうと言うことはない表現なのでしょうが、61年という時代の中においてみれば間違いなく最先端を行く表現だったはずです。
そして、そう言うアプローチでいくならばもっとも相性がいいのが「ジュピター」です。実に堂々として立派な佇まいです。

しかし、そうは思いつつ、少しばかり考え込んでしまうのです。
こういうアプローチならば、例えばセル&クリーブランド管の方がもっと上手くやってのけています。例えば、ジュピターの最終楽章のフーガなんかは、セルの方がはるかに立体的に仕上げています。
そして、その後の時代を眺めてみれば、例えばクーベリックとバイエルンのオケによる録音はさらに完成度が高いように思いますし、もっとエキセントリックに突き詰めたアーノンクールの録音なんかが手元にあれば、ベームの録音に手が伸びる回数は減るでしょう。

しかし、そうは思いながらも「これはベームだけの魅力だな」と思う瞬間がないわけではありません。
例えば、K.543の変ホ長調シンフォニーの第3楽章のトリオなんかはため息が出るほど美しいのです。

そして、ふと頭に浮かんだのは小林秀雄のあの有名な言葉です。
「美しい花がある。花の美しさと言うようなものはない。」

ここでのベームは間違いなく「美しいモーツァルト」を語っています。そして、そういう部分が彼の演奏を聴いていると時々出会えるような気がするのです。
しかし、残念ながら、彼の本姓としては「モーツァルトの美しさ」を説明しがちであることは否定できません。

いや、ほんとどの指揮者が「モーツァルトの美しさ」を必死で説明しているだけにしか聞こえない中で、そう言う瞬間に時々出会えるだけでもベームは偉大なのかもしれません。

もちろん、そう言う意味で言えば、ワルターこそは真に偉大なのかもしれません。

あのポルタメントをかけまくったウィーンフィルとの52年録音(K.550のト短調シンフォニー)を、いかに時代様式を無視した間違いだらけの演奏だと批判しても、そこに「美しいモーツァルト」が立っている以上は、そのような批判はただただ小賢しいだけなのです。
この越えることのできなかった壁に思いを致せば、ベームの演奏はある時代におけるモーツァルトのスタンダードでありながら、ワルターにはなりきれなかったことが「二度死んだ」と言われる原因なのでしょう。

もちろん、それはベームだけでなく、誰もがワルターにはなれなかったのですからそれは仕方がないことではあるのですが、それは同時に期待されたものの悲しみだったのかもしれません。