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ミリイ・バラキレフ:東洋風幻想曲「イスラメイ」 作品18

(P)ゲイリー・グラフマン 1962年7月23日~25日録音

  1. ミリイ・バラキレフ:東洋風幻想曲「イスラメイ」 作品18

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バラキレフにすれば記録的な早さで仕上がった作品

バラキレフの交響曲を紹介したときに、「バラキレフと言えば、ピアノの難曲として有名な『イスラメイ』ぐらいしか思い出せない人もいいはずです」と書きながら、肝心の「イスラメイ」は紹介していないことに気づきました。

バラキレフという人は不思議な経歴を持った人で、ロシア5人組を理論的にひっぱていくだけの知識があったに関わらず、パトロン的存在だったロシア大公妃「エレナ・パヴロヴナ」といざこざを引き起して音楽の世界から身を引き、鉄道会社に就職してしまったりします。
結局は、その10年後には再び音楽の世界に戻って聞くるのですが、そういう回り道の多い経歴にとんでもなく筆が遅いという特徴も重なって、残した音楽の数はそれほど多くはありません。

そんな多くない作品の中で、断トツで有名なのが「東洋風幻想曲」と題された「イスラメイ」です。

「イスラメイ」とはもともとはコーカサス地方に伝わる民族舞踏の音楽で、1862年にバラキレフが同地方を訪れたときに出会ったと思われます。
バラキレフはその音楽が非常に気に入ったようで、1867年には交響詩「タマーラ」に取りかかり、1869年にこのピアノ曲「東洋的幻想曲 イスラメイ」を作曲します。

旅行から創作までの時間が随分と空いているのですが、このあたりがバレキレフらしいと言えばバラキレフらしいのでしょう。しかし、交響詩の方は書いたり消したりの繰り返しで漸くにして仕上がったのが1882年(!)だったのに対して、「イスラメイ」の方は僅か一ヶ月で完成をみています。バラキレフにしてみれば「記録的」な早さだったのです。
そして、その様な記録的な早さで完成した作品が結局は「代表作」になってしまうのです。自己批判力が高いと言うことは大切なことですが、それも度を超せば角を矯めて牛を殺すことになるのでしょう。

「イスラメイ」はリストにも匹敵すると言われたほどのピアノの名手だったバラキレフの「良さ」が見事に発揮されています。さらに、ロシアの民族音楽を積極的に取り入れようとした五人組からみても、それは彼らの主張を見事に「形」にして見せた音楽でもありました。
もちろんケチをつけようと思えばいくらでもケチはつけられます。

中味の何もない、指先のアクロバットを披露するだけの音楽だと言われれば、それはまったくその通りかもしれません。
しかし、この指先のアクロバットはラヴェルにも影響を与え、これよりも難しいピアノ音楽を書いてやろうという野心を与えました。そして、ほぼ完成形に近づいていたコンサート・グランドの性能を極限まで使い切った音楽を書いたのはラヴェルだったことは誰も否定しません。そう言うラヴェルの業績のきっかけとなったことは一つの事実です。

また、この音楽の根底にコーカサス地方の民族音楽があるおかげで、指先のアクロバットにだけで終わらない幻想性を持っていることも事実です。
多くの人に愛される音楽には、それなりの理由があるのです。


これは指をいためるだろうな


グラフマンと言えば「ホロヴィッツの弟子」と言うことがよく引き合いに出されるのですが、同じ文脈でみればそれは「バイロン・ジャニス」の陰に隠れてしまいます。しかし、陰に隠れていたおかげで若いうちに潰されることなく30代、40代とキャリアを重ねることが出来ました。

「ソリスト」としてのキャリアをどのように築いていくのかというのは難しい問題です。
「仕事のオファー」がなければ話になりませんから、若い頃は「何でも引き受ける」というのは仕方のないことでしょう。そうやって引き受けた仕事で「実績」を積み重ねることで「ソリスト」としての地位を築いていくしかありません。

しかし、「演奏」という行為は「出力」です。オファーのあった仕事を全て引き受けていれば、いつか「出力」仕切って自分の内面が空っぽになってしまう時が来ます。ですから、「出力」は常に「入力」と対になっていなければいけないのですが、これが実に難しいのです。
「オファー」をする方は売れる間に出来る限り売っておこうとは思っても、「入力」の時間と機会を作って育てていこうなどとは思わないものです。
ですから、「出力」すればそれに見合った「入力」をするのは自分の責務と言うことになります。

しかし、それが難しいのです。
若いうちに消費されて消えてしまう人、そう言う「出力過多」の世界に嫌気がさしてソリストとしてのキャリアを捨てる人は少なくありません。
そんな中で、このバランスを上手くとってキャリアを積み上げることが出来る人は賢さとタフな精神力を持った人だけなのでしょう。そして、このグラフマンはそう言う「賢い」人の一人だったように見えるのですが、それでも50才を超えた1979年に指の故障で第一線からは身を引いてしまいます。

指の故障かぁ。
この「イスラメイ」はムソルグスキーの「展覧会の絵」と一緒に録音したものなのですが、この二つの録音を聞くとやっぱり指を故障するだろうなと思わせるものがあります。
こういう速いパッセージが連続する音楽を、一つの音符も曖昧にせずに明晰に響かせるというのは、指や手首にとんでもなく負担がかかるような気がするのです。もちろん、そんな事は人から言われなくてもグラフマン自身はよく分かっていたはずなのですが、自らの立ち位置が「ここ」である以上は、それはやりきらねばならないことだったのでしょう。

ただ、その過酷な負担によって、おかしな話なのですが「イスラメイ」ってこんな音楽だったんだ、と言うことをはじめて教えてもらったような気になるのです。
この作品のことを「変奏曲」と書いている人もいるのですが、やはりこれは「急ー緩ー急」の3部形式とみるのが妥当でしょう。確かに、最後の「急」のところで最初の主題がかえってきますが、中間部の「緩」は「変奏」とみるのは無理があります。

しかし、これを三部形式とみれば、そして最後に頭の主題がかえって来るとなると、もっと凄いスピードとパワーで弾ききらないと聴衆は納得しないでしょう。
気楽な聞き手は常に残酷なのです。そして、その残酷な要求にグラフマンは見事にこたえています。

それ故に、50才を超えた時点で彼が指の故障で引退したことを知る現在の聞き手にすれば、この怒濤のフィナーレを聞くとき、いささか複雑な思いとらわれるのです。