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モーツァルト:交響曲第40番 ト短調 K.550


ハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮 北ドイツ放送交響楽団 1959年5月録音をダウンロード

  1. モーツァルト:交響曲第40番 ト短調 K.550 「第1楽章」
  2. モーツァルト:交響曲第40番 ト短調 K.550 「第2楽章」
  3. モーツァルト:交響曲第40番 ト短調 K.550 「第3楽章」
  4. モーツァルト:交響曲第40番 ト短調 K.550 「第4楽章」

これもまた、交響曲史上の奇跡でしょうか。



モーツァルトはお金に困っていました。1778年のモーツァルトは、どうしようもないほどお金に困っていました。
1788年という年はモーツァルトにとっては「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」を完成させた年ですから、作曲家としての活動がピークにあった時期だと言えます。ところが生活はそれとは裏腹に困窮の極みにありました。
原因はコンスタンツェの病気治療のためとか、彼女の浪費のためとかいろいろ言われていますが、どうもモーツァルト自身のギャンブル狂いが一番大きな原因だったとという説も最近は有力です。

そして、この困窮の中でモーツァルトはフリーメーソンの仲間であり裕福な商人であったブーホベルクに何度も借金の手紙を書いています。
余談ですが、モーツァルトは亡くなる年までにおよそ20回ほども無心の手紙を送っていて、ブーホベルクが工面した金額は総計で1500フローリン程度になります。当時は1000フローリンで一年間を裕福に暮らせましたから結構な金額です。さらに余談になりますが、このお金はモーツァルトの死後に再婚をして裕福になった妻のコンスタンツェが全額返済をしています。コンスタンツェを悪妻といったのではあまりにも可哀想です。
そして、真偽に関しては諸説がありますが、この困窮からの一発大逆転の脱出をねらって予約演奏会を計画し、そのための作品として驚くべき短期間で3つの交響曲を書き上げたと言われています。
それが、いわゆる、後期三大交響曲と呼ばれる39番?41番の3作品です。

完成された日付を調べると、39番が6月26日、40番が7月25日、そして41番「ジュピター」が8月10日となっています。つまり、わずか2ヶ月の間にモーツァルトは3つの交響曲を書き上げたことになります。
これをもって音楽史上の奇跡と呼ぶ人もいますが、それ以上に信じがたい事は、スタイルも異なれば性格も異なるこの3つの交響曲がそれぞれに驚くほど完成度が高いと言うことです。
39番の明るく明晰で流麗な音楽は他に変わるものはありませんし、40番の「疾走する哀しみ」も唯一無二のものです。そして最も驚くべき事は、この41番「ジュピター」の精緻さと壮大さの結合した構築物の巨大さです。
40番という傑作を完成させたあと、そのわずか2週間後にこのジュピターを完成させたなど、とても人間のなし得る業とは思えません。とりわけ最終楽章の複雑で精緻きわまるような音楽は考え出すととてつもなく時間がかかっても不思議ではありません。
モーツァルトという人はある作品に没頭していると、それとはまったく関係ない楽想が鼻歌のように溢れてきたといわれています。おそらくは、39番や40番に取り組んでいるときに41番の骨組みは鼻歌混じりに(!)完成をしていたのでしょう。
我々凡人には想像もできないようなことではありますが。

かなり時代を先取りしたモーツァルトだったのかもしれない

これもまた、今となっては殆ど誰も思い出さないようなモーツァルトの録音です。1959年の録音なのにモノラルというのが信じがたいのですが、それだけ録音には恵まれなかったと言うことなのでしょう。
しかし、モノラルではあるのですが、響きが真ん中に固まって窮屈になることもなく、また、楽器の分離も悪くはありませんから、極上とまでは言えなくてもそこそこのクオリティであることが救いでしょうか。

そのおかげで、中庸で温和な音楽家というイッセルシュテットへの「先入観」を払拭する上で多少の役割は果たしてくれそうな存在です。

聞けば分かるように、このモーツァルトは中庸でもなければ穏和でもありません。
もちろん、少し前に紹介した「ジュピター」のような力ずくのモーツァルトでもありません。あの「ジュピター」はライブでのイッセルシュテットがどんな音楽をやるのかと言うことを誰の目(耳?)にも分かるように提示してくれた演奏でした。
しかしながら、さすがにセッション録音ではあのようなことが起こるはずもありません。

しかし、彼の中のモーツァルトというのは基本的に引き締まった男性的な音楽として存在していたことは間違いないようです。
ポルタメントを多用して曲線路で構成されたモーツァルトというのは過去の遺物にはなっていましたが、それでも当時のヨーロッパの指揮者の主流はもう少し低声部を分厚くならして、今の耳からすればいささか鈍重な感が否めないものでした。そう言う主流から彼の演奏を眺めてみれば、かなり時代を先取りしたものだったのかもしれません。

分厚い響きでマスキングされることがないので、音楽全体の形が結構クリアに描き出されていますし、なんと言っても全体がスッキリとした直線で造形されているのが古さを感じさせない所以でしょう。

とは言え、現在の聞き手は贅沢です。様々な美味珍味に飽いて、一口つまんだだけで跡は箸もつけないという人もいます。それが、聞き手にとって幸せなのかどうか疑問に思うことが増えています。
もちろん、ジャンクフードしか食べたことがないので、ものの味が全く分からないよりは幸せではあるのですが・・・。