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エルガー:チェロ協奏曲 ホ短調 作品38

(Cello)ジャクリーヌ・デュ・プレ ジョン・バルビローリ指揮 ロンドン交響楽団 1965年8月19日録音

  1. エルガー:チェロ協奏曲 ホ短調 作品38 「第1楽章」
  2. エルガー:チェロ協奏曲 ホ短調 作品38 「第2楽章」
  3. エルガー:チェロ協奏曲 ホ短調 作品38 「第3楽章」
  4. エルガー:チェロ協奏曲 ホ短調 作品38 「第4楽章」


意外と評価が低い作品なのでしょうか?・・・、不思議です。

レコード芸術という雑誌があります。私は購読しなくなって随分な日が経つのですが、一応クラシック音楽を聴く人間にとっては定番のような雑誌です。その定番の雑誌の定番とも言うべき企画がベストレコードの選出です。20世紀が終わろうかと言うときには、誰もが想像するとおりに20世紀のベストレコードの選出を行っています。その時の企画が一冊の本となって出ているのですが、選出の対象となった300の作品の中にこの協奏曲はノミネートされていません。

エルガーの作品でノミネートされているのは驚くなかれ「威風堂々」だけです。これでは、エルガーはマーチの作曲家だったと誤解されても仕方がありません。
チェロによる協奏曲と言うことでは、おそらくドヴォルザークのものと並び立つ最高傑作だと思うのですが、残念ながら無視をされています。
それは同時に、日本におけるエルガー評価の反映なのかもしれません。

それはエルガーに限ったことではなく、同時代のイギリスを代表するディーリアスになるとノミネートすらされていませんから、日本におけるイギリス音楽の不人気ぶりは際だっています。おそらくその一番大きな原因は、にこりともしない晦渋さにあるのでしょうね。
どこかで聞いたエピソードですが、エルガーの作品は退屈だという意見には不満を感じるイギリス人も、ディーリアスになると他国の人間には分かってもらえないだろうなと諦めてしまうそうです。

しかし、あらためてこのエルガーのチェロ協奏曲を聴いてみると、冒頭のチェロのメロディは実に魅力的です。ドヴォルザークならこれに続いてどんどん魅力的な歌を聞かせてサービス満点の作品に仕上げてくれるのですが、エルガーの場合はその後はいつものイギリス風に戻ってしまいます。しかし、ある種の晦渋さと背中合わせになっているそのような渋さが、聞き込むほどに良くなってくるという意味で「大人の音楽」と言えるのかもしれません。

なお、この作品を完成させた翌年に彼を生涯にわたって支え続けてきた妻を亡くすのですが、その打撃はエルガーから創作意欲を奪ってしまいます。その後の15年間で数えるほどの作品しか残していませんから、この協奏曲は実質的にはエルガーの最晩年の作品といえます。

ひたすら無心に


どうして、この録音を今までアップしていなかったのかと自分でも驚いてしまいます。ただし、理由は簡単で、自分ではとっくの昔にアップしてあるものとばかり思いこんでいたからです。
その思いこみの誤りに気がついたのは、EMIの数少ない(そう、本当に、驚くほどかす少ない!!)優秀録音を探していて、この録音に行き逢ったのです。

そうだ、デュ・プレのエルガーなら既にアップしてあるからちょうどいいや、と思ってチェックしてみると「アップしていない」事に気づいたのです。
この演奏は1965年に録音され、その年の内にリリースされていますから、パブリック・ドメインになって既に1年以上が経過しています。

それじゃ、2016年の1月1日に何を追加していたんだろうと調べてみると「ホロヴィッツ/カーネギー・ホール ザ・ヒストリック・コンサート」をアップしていました。
なるほど、この頃は本当にいい時代だったんですね!!

さて、このエルガーのコンチェルトですが、これはもう20世紀の録音史に燦然と輝く金字塔ですから、今さら何も付け加える必要がありません。それこそ、本当にたくさんの人がこの演奏に関しては賛辞を呈していますから、その上に一体何を付け加えればいいのでしょう、という感じです。
なので、「デュ・プレのために書かれたのではないかと思わせるほど、曲と一体となった激しくも美しい独奏」だとか、「いまだにこの演奏を凌駕するものは出ていない」とか「万感胸に迫る演奏だ」なんて事はもう書きません。

このデュ・プレの演奏を聴くたびに思い浮かぶのが「藤圭子」です。
藤圭子は18歳の時に「新宿の女」でデビューしました。デビューの時は「17歳の演歌歌手」がキャッチコピーだったのですが、最初のレコードが発売されたときには誕生日を2ヶ月ほど過ぎていて既に18歳になっていたそうです。

デュ・プレのレコードデビューも1962年の7月なので17歳の時でした。そして、このエルガーのチェロ協奏曲は65年8月という事で20才を迎えたばかりの時期でした。
この録音の時の様子が写真として残されています。



藤圭子もデュ・プレも、私が知る限りは幸せとは言い難い人生を過ごしたようです。

最近、沢木耕太郎が藤圭子の自殺を受けて、長年塩漬けにしてきた「流星ひとつ」を発表しました。
そこには、「不幸な生い立ち」という「作られたイメージ」ではない藤圭子の実像が純子(彼女の本名は純子)自身の言葉として語られていました。

沢木は圭子のことをいつもウサギのようにおびえていると感想を述べるのですが、その「恐れ」の根っこに父親からの過酷な暴力があったことが淡々と語られています。その語り口があまりにも淡々としているがゆえに、その暴力の凄まじさと理不尽さは読んでいて気分が悪くなるほどです。デュ・プレと父親の関係についても色々語られていて真偽は藪の中ですが、それでも性的虐待があったことは否定しようがないようです。それ故でしょうか、彼女の若い頃の演奏を聴くと、その根底にある一途なまでの必死さが藤圭子と相似形のように聞こえるのです。

藤圭子の歌に「怨みの歌」を見いだしたのは五木寛之の慧眼でしたし、その慧眼ゆえに彼女は一躍スターとなっていきました。
しかし、その「慧眼」を通俗的に一般化してしまうと、その不幸な生い立ちゆえに彼女の歌がひとつの絶対性を獲得したかのように思いこんでしまう誤りに陥ってしまいます。

藤圭子が本当に輝いていたのは10代の2年間だと思うのですが、その2年間のことを沢木に聞かれた圭子は「何も考えずにひたすら無心に歌っていた」と語っていました。
そして、19才で結婚し、その2年後に離婚したことで周りが見えるようになってきて、もう無心ではいられなくなったと正直に語っています。

「きっと、少し大人になったんだろうね。・・・子供は人に気を使わないじゃない、それとおなじだよ。だから、あたし、無心に歌が歌えていたんだ。」

置かれた境遇は違うとしても、おそらく音楽こそが崩れ落ちそうになる自分を支えてくれる存在であったことは共通していたはずです。
少女時代のデュ・プレがチェロという楽器と向かい合った過酷さは容易に想像できます。
藤圭子もまた10才の頃から人前で歌って一家の生計を支えてきたのは事実ですし、東京に出てきてからは新宿の夜を流しをしながら生きてきたのも事実です。

そして、その必死の思いで音楽と向き合ったからこそ身についた「力」があったはずです。
その「力」がなければ、そんな「不幸な生い立ち」などというものは音楽をやっていく上では何の役にも立ちません。

藤圭子のファースト・アルバムに前川清の「逢わずに愛して」をカバーした1曲が入っているのですが、それなどを聞くと、持てるテクニックの全てをつぎ込んで、ひたすら無心に歌っている姿が手に取るように分かります。
それは、彼女のデビュー曲である「新宿の女」や「夢は夜ひらく」等でも全く同じです。

そして、デュ・プレもまた、このエルガーの協奏曲で、小さい頃から積み上げてきたありとあらゆるテクニックを無心になってつぎ込んでいることに気づかされます。
そして、それは62年に録音した小品集でも、同じ年に録音したディーリアスの協奏曲でも同じです。

もしも、このエルガーの協奏曲が「デュ・プレのために書かれたのではないか」と思わせるものがあるとすれば、それは自分の持てる力を無心につぎ込む事が出来たからでしょう。そして、彼女もまたつまらぬ男と結婚して、周りが見えてくるにつれてこの「絶対性」を失っていきました。
デュ・プレは何も語っていませんが、圭子は正直に語っています。

「貴方は依然として充分にうまいじゃないですか。そこらへんの歌手よりも数倍うまい」と語る沢木にこたえた圭子の言葉は切ないものでした。
「確かに、ある程度は歌いこなせるんだ。人と比較するなら、そんなに負けないと思うこともある。でも、あたしは前の藤圭子をよく知っているんだ。あの人と比較したら、もう絶望しかないんだ。」

もしかしたら、この世界で長くやって行くには「鈍感力」がいるのかもしれませんが、そんな「鈍感」な音楽など聞きたくないという「残酷」な思いも首をもたげてくるのです。