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シベリウス:交響曲第3番 ハ長調 Op.52
渡辺暁雄指揮 日本フィルハーモニー交響楽団 1962年8月7,8日録音(東京文化会館)をダウンロード
気むずかしいシベリウスへの転換点?・・・(^^;
若い頃のシベリウスは大変な浪費家で派手好きで、お酒とたばこを手放すことができない人だったのです。
特に、金銭的感覚というものが全く欠落していて、おまけに贅沢好きときているので借金まみれの生活をしていました。
そして、そう言う派手好きな外面とは裏腹に神経質で気弱な面があって、素面ではオケの指揮もできないというような側面ももっていました。
シャンペン一本をあおってから指揮台に立っていたという話も伝わっているほどです。
フィンランディアや第1、第2の交響曲の成功で世界的名声を獲得していく中で、その生活はますます享楽的で破滅的なものにむかっていったようです。借金はどんどんかさみ、家計は破綻寸前、酒とたばこで健康も破綻寸前という惨憺たる状況に追い込まれていたのです。
そして、生活と健康の破綻は彼の中から創作へのインスピレーションをも奪っていき「ヘルシンキでは私の内なる歌が全て死んだ・・・」と嘆くまでにいたります。
そんな彼が一大決心で実行したのが、ヘルシンキ近郊のヤルヴェンパーへの転居でした。
彼はそこに借金で(やっぱり、借金かよー^^;)山小屋風の建物を建てて終生の住まいとすることになり、その建物を妻の名前にちなんで「アイノラ」と名付けます。
その「アイノラ」で生み出された最初の交響曲がこの第3番でした。
この作品には、初期の2作品で見られた華やかな幻想性や華麗な響きは姿をひそめます。
変わって姿を表すのは、その後のシベリウスを特徴づける深い内省です。
表情豊かに旋律を歌わせるのではなく、ぼそぼそと語るその後のシベリウスの特徴がはっきりとあらわれています。
しかし、幻想的ではあっても不明瞭な部分も残していた音楽が、驚くほどに簡潔で純度の高い音楽に一変しています。
それは後期ロマン派風の豊饒な響きの世界から、どこか古典派的な引き締まった世界への変貌と言えるでしょうか。
楽器編成を見ても、初期の2つの交響曲と較べればより簡素なものになっています。
打楽器は第1番では「ティンパニ、大太鼓、シンバル、トライアングル」と賑やかに使っていたのが、この第3番ではティンパニーだけとなっています。
金管楽器も1番と2番ではチューバが使われ体たのが、第3番では姿を消します。
おそらくこの違いは、ヘルシンキでの享楽的な生活に終止符をうったことが大きく影響していることは間違いありません。
ヘルシンキでのバラと酒の日々が、アイノラでの森と湖の生活に変わったのですから、それが音楽に影響を与えないはずがありません。
とりわけ、第2楽章における寂寞感にその影響が強く感じられます。
それでも、この時期のシベリウスはたびたび「アイノラ」を抜け出しては、しばしヘルシンキで酒とバラの日々をすごすという、未だに娑婆っ気の抜けきらない生活もおくっていました。
この娑婆っ気が完全に抜けるには、命の危機に見舞われた闘病生活を経る必要があり、その成果が次の第4番シンフォニーに結実します。
そこでシベリウスは初めて生まれ変わる訳なのですが、まさにそう言う転換の踊り場に存在するのがこの交響曲だと言えます。
世界最初のステレオ録音によるシベリウス交響曲全集
1962年に録音された「世界最初のステレオ録音によるシベリウス交響曲全集」です。さらに、日本国内で録音されたクラシック音楽が世界的なメジャーレーベル(Epic Records)からリリースされたのもおそらく初めてだろうと言われています。
渡邉暁雄の名前は日本におけるシベリウス受容の歴史と深く結びついています。その業績は朝比奈とブルックナーの関係と較べればいささか過小評価されている感じがするのですが、60年代の初めにこれだけの録音を行い、それが世界市場に向けてリリースされたのは「偉業」と言わざるを得ません。
ただしこの録音の初出年を確定するのには手間取りました。
62年に録音されて、その後「Epic Records」からリリースされたのですから、常識的に考えればぼちぼちパブリック・ドメインになっていても不思議ではありません。しかしながら、どうしてもその初出年が確定できなかったのです。
しかし、漸くにして、1966年に「Epic SC 6057」という番号でボックス盤の全集としてリリースされたことが確認できました。
おそらく、この全集盤の前には分売でも発売されたと思われます。
ボックス盤による全集「Epic SC 6057」
ただし、不思議なのは「作曲家別洋楽レコード総目録」の67年版や68年版にはこの全集が記載されていないことです。
渡邉暁雄と日フィルによるこの「偉業」が1966年に「Epic Records」からりリースされたのであれば、当然国内でも発売されたと思うのですが67年版にも68年版にも記載されていません。しかし、ここで確認を打ち切っていたのが私のミスで、69年版の総目録を調べてみると記載されていて、発売が1966年12月となっているのです。
この記載漏れが何に起因するのかは分かりませんが、もしかしたら舶来品を尊び国産品を蔑むこの業界の体質が呈したのかもしれません。
と言うことで、国内でも1966年に発売されているので、この録音は間違いなくパブリック・ドメインの仲間入りをしたことが確認された事はめでたいことです。
この全集はクレジットを見る限りは1962年に集中的に録音されたように見えます。
- シベリウス:交響曲第1番 ホ短調 Op.39:1962年5月7,8日録音(東京文化会館)
- シベリウス:交響曲第2番 ニ長調 Op.43:1962年録音(杉並公会堂)
- シベリウス:交響曲第3番 ハ長調 Op.52:1962年8月7,8日録音(東京文化会館)
- シベリウス:交響曲第4番 イ短調 Op.63:1962年6月20,21日録音(東京文化会館)
- シベリウス:交響曲第5番 変ホ長調 Op.82:1962年2月18日録音(文京公会堂)
- シベリウス:交響曲第6番 ニ短調 Op.104:1962年音(文京公会堂)
- シベリウス:交響曲第7番 ハ長調 Op.105:1962年3月7日録音(杉並公会堂)
しかし、録音プロデューサーの相澤昭八郎氏は1961年から1962年にかけて録音は行われたと語っています。別のところではおよそ1年半をかけてこのプロジェクトを完成させたとも述べていますので記憶違いではないでしょう。
おそらく、1962年という極めてザックリとしたクレジットしか残っていない2番と6番に問題があったのでしょう。
相澤は録音の編集に関しては渡邊からの注文が詳細を究めたので、お金のかかるスタジオではなくて渡邊の自宅で行ったと証言しています。
渡邊の注文は演奏上の細かいミスを潰していくというのではなく、オーケストラのバランスが適正に表現されているか否かに集中していたそうです。
しかし、ワンポイント録音ではそう言うバランスの調整というのはほとんど出来ません。ワンポイント録音で可能なのは左右のチャンネルのバランスを調整するくらいですから、録音現場で拾ったバランスがほぼ全てです。
渡邊もその事は承知していたと思われるます。
何回かのテイクの中からもっとも適正と思えるバランスのものを選びだしてはテープに鋏を入れ、最後のつめとして可能な範囲でバランスの調整を行ったのです。
それでも、どうしても納得できない場合は場をあらためてセッションを組んだものと思われます。
相澤が1961年からプロジェクトをはじめたといいながら録音クレジットは62年だけで完結したように見えるのは、そう言う録音での苦闘が水面下に隠れてしまったからでしょう。
アメリカやイギリスのメジャーレーベルであれば、62年と言えば既にステレオ録音の経験を充分に積んできた時代です。Deccaのようなレーベルであれば「録音に適した会場」を既に見つけ出していて、さらにはそう言うホールの録音特性を知り尽くしていました。
しかし、日本におけるステレオ録音となると、おそらくは手探り状態だったはずです。
その差は歴然としていました。
文京公会堂では会場の前半分の椅子を撤去することが可能でした。その撤去した空間を平戸間にすることでマイクセッティングの自由度を上げることが可能だったようです。
しかし、杉並公会堂や東京文化会館ではそう言うわけにもいかなかったので苦労は随分と多かったようです。
しかしながら、そう言う苦労を乗り越えて実現したこの録音は極めてクオリティの高い優秀なものに仕上がっています。
確かに、時代相応の限界があるので、楽器の響きなどはいささか「がさつ」なところがあるかもしれません。しかし、その「がさつ」さは録音ではなくて、そこで鳴り響いていたオケのものかもしれません。
人によっては強奏部分では音がつまると指摘する人もいますが、それほど気になるほどではありません。
それよりは、渡邊が徹底的に腐心した、オケの理想的なバランスがもたらす自然な響きが非常に見事です。
おそらく、この成果の手柄は録音エンジニアの若林駿介氏に帰すべきでしょう。
若林はこの録音の前にアメリカに渡って、ワルターとコロンビア響の録音現場に参加して学ぶ機会を持っています。ですから、この録音のクオリティをそう言うアメリカでの経験に求める人もいます。
確かに、それは若林にとっても貴重な経験だったことは疑いはないのでしょう。しかし、この録音はそう言う一連のワルター録音と較べると方向性が少しばかり違う事に気づきます。
この録音におけるオケのバランスとプレゼンスの良さは、あるはずのない「理想」を「録音」という技術によって生み出したと言うべきものになっています。
それはあるがままのものをレコード(記録)したと言うよりは、ある種の創作物になっていると言った方がいいかもしれません。言葉をかえれば、プロデューサーの相澤、録音エンジニアの若林、そして指揮者の渡邊の3人によって生み出された「芸術」というべきものになっているのです。
その意味では、この録音を「人為的」と感じる人がいるかもしれません。しかし、こういう事が可能なのが「スタジオ録音」の魅力でもあるのです。
また、丁寧にテイクを積み重ねた結果だとは思うのですが、日フィルの合奏能力も見事なものです。
いわゆる欧米のメジャーオーケストラでも、来日のライブなんかだとこれよりも酷い演奏を平気で聴かせてくれます。
もちろん、個々の楽器にもう少し艶があってもいいとは思う場面はあるのですが、おそらくは貧弱な楽器を使っていた60年代のことですから、そこまで言えば人の能力を超えたレベルの注文になってしまいます。
シベリウス:交響曲第3番 ハ長調 Op.52:1962年8月7,8日録音(東京文化会館)
一連の全集録音の中では最後の録音になります。そのためだと思われるのですが、これが最もうまくオケの響きがとらえています。
一つずつの楽器の質感も見事です。
ただ、残念なのは、その元々の質感がそれほど上等ではないことです。しかし、おかしな話ですが、それがあまり上等でないがゆえに妙な生々しさが感じ取れます。
それにして、当時の日本の録音技術の段階から言えば、これは黎明期の録音です。その黎明期において、これだけのクオリティが実現していたというのは驚き以外の何ものでもありません。
確かに、同時代のDECCAやRCAと較べれば注文をつけたい部分があるかもしれません。しかし、そこには「奇蹟」と呼ばれた経済復興を遂げていく日本という国に内在していた「パワー」の片鱗を垣間見る思いがします。
演奏の方も、この過渡期と言われる、ある種の中途半端さを抱え込んだ音楽を強い共感を持ってエネルギッシュに描き出しています。
私が渡邉暁雄の指揮姿に接したのは一度だけで、どこかシンとした佇まいで淡々と指揮をしていたという印象しか残っていません。
あの「淡い」印象しか残さなかった晩年の渡邊が、40代前半の頃にはこんなにも熱い音楽をやっていたというのは、ちょっとした驚きでした。