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Great Tone Poems Of Sibelius
サー・ジョン・バルビローリ指揮 ハレ管弦楽団 1966年1月録音をダウンロード
- Sibelius:Symphonic Poem "Finlandia", Op. 26
- Sibelius:Karelia Suite, Op. 11 [1.Intermezzo]
- Sibelius:Karelia Suite, Op. 11 [2.Ballade]
- Sibelius:Karelia Suite, Op. 11 [3.Alla Marcia]
- Sibelius:Symphonic Fantasy "Pohjola's Daughter". Op. 49
- Sibelius:Valse Triste, Op. 44
- Sibelius:Lemminkainen's Return, Op. 22
民族のアイデンティティ
民族のアイデンティティを問うのは難しいものです。私だって、面と向かって「日本人としてのアイデンティティとは何か?」と問われれば言葉に詰まってしまいます。
とはいえ、人は己のアイデンティティをどこかに求めたくなるのは当然のことであり、シベリウスもまた家庭内言語がスウェーデン語であった事を恥じ、己のフィンランド人としてのアイデンティティを民族叙事詩「カレワラ」に求めました。ですから、彼はこの「カレワラ」を若い頃に積極的に作品の題材として取り上げています。
しかし、「カレワラ」に題をとった若い頃の作品をまとめて聴いてみると、そこで展開される民族的な物語が最終的には西洋音楽の合理性の中でわくづけられてしまっている事に気づかざるを得ません。
もちろん、そんなことは私が言うまでもなくシベリウス自身が一番強く感じ取っていたことでしょう。
そして、40代になって生み出された作品49の交響的幻想曲「ポホヨラの娘」あたりまでくると、そう言う枠から抜け出しつつあるシベリウスの姿がはっきり見て取れるようになります。
交響詩「フィンランディア」 作品26
「フィンランディア」として知られているこの作品はフィンランドにとっては「国歌」みたいな存在です。
こういう存在は他の国にもあって、たとえばイタリアでは宴が盛り上がるとナブッコの「行け、我が想いよ、黄金の翼に乗って」を歌う場面をよく見受けます。オーストリアではなんと言っても「美しく青きドナウ」です。
ただし、北欧のオケが来日して主催者側からこの曲を依頼されると流石にうんざりすることも事実のようです。
とはいえ、この作品はその分かりやすさもあってシベリウスの数ある作品の中では最も有名な一曲であることは間違いありません。
冒頭の重々しい楽想は明らかにロシアの圧政を暗示していますし、それが中間部の金管楽器の雄叫びで打ち破られるとフィンランドの美しさをたたえるかのように叙情的な旋律があらわれます。この美しいメロディは卒業式の入場曲なんかにも使われていました。
そして、その美しいメロディが終わりを告げると、音楽はコーダに向かって大きく盛り上がってフィンランドの解放が暗示されます。
この作品が持つ危険性を感じ取ったロシアは一時演奏禁止にするのですが、それもフィンランド人の反発をまねいてすぐに演奏禁止は解除されます。そして、この音楽がフィンランドの独立に向けた動きに大きなはずみを与えることになったわけです。
組曲「カレリア」作品11
カレリア地方は「カレワラ」が生み出された地だと言われていて、シベリウスも新婚旅行でこの地を訪れています。
この組曲はカレリア地方の大学から野外劇の付随音楽を依頼され、その音楽から3曲選んで作品11として出版されたものです。
- 第1曲:間奏曲
- 第2曲:バラード
- 第3曲:行進曲
ちなみに、付随音楽の序曲も「カレリア序曲」作品10として出版されているのですが、こちらは演奏される機会は非常に少なく録音もほとんどないようです。
それと比べると組曲の方は、第1曲の雄大なダイナミズム、第2曲のしっとりとした北欧的な叙情、そして第3曲の素朴な民衆の踊りからは明るい快活さがあふれ出していて、疑いもなく若きシベリウスの美質が詰め込まれています。
交響的幻想曲「ポホヨラの娘」 作品49
この作品も「カレワラ」に題を得たもので、ここでは英雄ヴァイナモイネンとポホヨラの娘のやりとりが音楽で描かれます。
それにしてもレンミンカイネンにヴァイナモイネンという二人の英雄を手玉にとったポホヨラの娘とはよほど魅力的な女性だったのでしょう。
娘は自分の愛が得たいのならば自分が与えた試練を乗り越える事を英雄ヴァイナモイネン要求します。
英雄ヴァイナモイネンは己の力を駆使してその試練を次々と克服していくのですが、最後の「小さな糸巻き棒から船を造る」という試練に失敗し己の斧で負傷してしまいます。
そして、試練に失敗したヴァイナモイネンは試練をあきらめて再び旅に出ようとするのですが、そんなヴァイナモイネンに娘はあざけりの笑いを投げかけます。
劇音楽「クレオマ」より第1曲 「悲しきワルツ」作品44-1
シベリウスは妻の兄であるアルヴィド・ヤルネフェルトの手になる「クオレマ(死)」という戯曲に劇音楽をつけます
この「クオレマ」なる劇が戯曲としてどれほどのポピュラリティがあるのかは知りませんし、この劇音楽の方も今では演奏される機会がほとんどありません。
この劇音楽は、当初は次の6曲から構成されていました。
- 第1幕の音楽:Tempo di valse lente - Poco risoluto
- 第2幕の音楽:バリトン独唱のための「パーヴァリの唄」 Moderato (Paavali's Song: 'Pakkanen puhurin poika')
- 第2幕の音楽:前奏とソプラノ独唱のための「エルザの唄」および後奏 Moderato assai - Moderato (Elsa's Song: 'Eilaa, eilaa') - Poco adagio
- 第2幕の音楽:「鶴」 Andante (The Cranes)
- 第3幕の音楽:Moderato
- 第3幕の音楽:Andante ma non tanto
しかし、劇の上演後、シベリウスはこの中から第1曲の「Tempo di valse lente(遅いワルツのテンポで)」を「Valse triste(悲しきワルツ)」なるコンサート用の小品に改変します。
さらに、同じ要領で、第2幕の「 Moderato assai」と「鶴」と呼ばれる「Andante」の曲とつなげて「Scen med tranor」という小品を仕立て上げます。
そして、この二つをセットにして「劇音楽クオレマより Op.44」としました。こちらの方は、劇音楽とは違って今日も演奏される機会の多い作品です。
とりわけ、第1曲の「悲しきワルツ」はシベリウスの管弦楽小品としては高いポピュラリティを持っています。
なお、この悲しきワルツは以下のような場面で演奏されます。
病が重く死の床についている夫人が夢うつつにワルツの調べを聞き、幻の客と一緒に踊り出す。
女は客の顔を見ようとするが、客は女を避ける。
やがてクライマックスにたしたときに扉を叩く音がして、ワルツは破られる。
そこには踊りのパートナーの姿はなく、戸口には「死」が立っている。
かなり不気味な場面設定ですから、アンコールピースとして使われることは滅多にないようです。
4つの伝説曲 Op.22より第4曲「レンミンカイネンの帰郷」
シベリウスにとってオペラの作曲は一種のトラウマとなっていました。
カレワラの英雄レンミンカイネンを主人公とした作品を何度か構想するのですが、そのたびに己のオペラに対する適正のなさを思い知らされるのでした。
しかし、そうして断念したオペラの断片から「4つの伝説曲」が生み出されたのですから、才能のない作曲家から見れば羨ましい限りです。
- レンミンカイネンとサーリの乙女
- トゥオネラの白鳥
- トゥオネラのレンメンカイネン
- レンミンカイネンの帰郷
「トゥオネラの白鳥」はこの「4つの伝説曲」の中の第3曲として位置づけなのですが、単独で取り上げられる機会の多い作品です。
「トゥオネラ」とは「カレワラ」に出てくる黄泉の国のことで、そのまわりには黒い川が流れていて神聖な白鳥が悲しみの歌を歌っているとされています。
ところが、「カレワラ」では英雄レンミンカイネンは愛したポホヨラの娘を得るために娘の母親からその白鳥を捕まえてくるように命じられます。
当然のことながらそのような試みは失敗するのですが、ここではその神秘的なトゥオネラの白鳥が描かれています。
「レンミンカイネンの帰郷」はその様な試みに失敗して5つの身体に切り刻まれて死の国に運ばれたレンメンカイネンを母親が取り戻し、さらには蘇生をさせて故郷へ帰郷する場面を描いています。
そして、それもなおポポヨラの娘への愛を語るレンミンカイネンなのですが、ついに母親の説得に負けて故郷を目指します。
この音楽では、その母親の説得を受け入れて故郷を目指す場面だけが描かれています。
演奏効果に軸足を置いて華やかに仕上げる指揮者が多いなかで、バルビローリはほとんど確信犯的に華やかになることを避けています
バルビローリにとってシベリウスは重要なレパートリーであり、それ故に彼のシベリウス演奏は高い評価を得ていました。そんなバルビローリが手兵のハレ管と、1966年から69年にかけて交響曲と主だった管弦楽曲の録音を行います。そして、この録音は長きにわたってシベリウス演奏の「メートル原器」の位置を占めていました。
しかし、時代が進むにつれて、ベルグルンド盤、さらにはサラステ盤、ヴァンスカ盤などが出てきて、その流れの中ではフィンランド語のリズムが分からない奴にはシベリウスの音楽が分かるはずがない等という「原理主義」的イデオロギーも持ち込まれて、最近ではすっかり影が薄くなってしまいました。
確かに、一連の録音の中では一番最初にリリースされたのが「フィンランディア」などの有名な管弦楽曲を集めたこの一枚(Great Tone Poems Of Sibelius)なのですが、あらためて聞いてみると、意外なほどに地味で大人しい演奏であることに驚かされます。
この中では「ポホヨラの娘」だけが中期に踏み込んだ作品で、それ以外はチャイコフスキーからの影響を色濃く残した初期に属する作品です。
ですから、普通はもっと演奏効果に軸足を置いて華やかに仕上げる指揮者が多いのですが、バルビローリはほとんど確信犯的に華やかになることを避けています。
おそらく、このアルバムを貫く基本なイメージがはっきりと表れているのが「カレリア序曲」の第2曲「バラード」でしょう。
イングリッシュ・ホルンによって延々と歌い継がれていく歌は、宇野功芳的に表現すれば「寂しさの限り」です。
そして、この寂しさは至るところに顔を出すのです。
それはこのアルバムの第1曲目のフィンランディアから表れています。
冒頭の重々しい金管に続いて木管と弦楽器が歌い出すのですが、そこでかすかにバルビローリのうなり声が入っています。それは、明らかにこの旋律を悲劇的に美しく盛り上がることを押さえ込もうとしています。
「ポホヨラの娘」冒頭のホルンとファゴットが奏する響きや、最後の場面で弦楽器によってひそやかに繰り返される「不機嫌のモチーフ」、それが消え去った後にもう一度チェロとコントラバスが消えていくような響きなども寂しさに溢れています。
それが死を描いた「悲しきワルツ」になると、切れ切れに歌われる歌の切れ目はやがて訪れる死への恐怖をかき立てていきます。
その意味では、これはバルビローリという人の目に映った徹底的に主観的なシベリウスです。そして、その目に映ったシベリウスというのは「寂しい男」なのです。
確かに、フィンランド語が内包するリズムに従って彼の音楽を徹底的に解剖して、その成果を精緻に再現するという方法論は、今まで聞いたことがなかったような新しいシベリスの姿を提示してくれました。
それはそれで魅力的であって否定するものではないのですが、そう言う方法論が登場してきたときに困るのは、一部の原理主義者がそれを絶対的なものとして、それ以外のアプローチの全てを「誤った」ものとして全否定してしまうことです。
こういう「原理主義的誤り」はどれほどの惨禍をもたらすかは、ピリオド演奏というイデオロギーが持ち込まれることによって嫌と言うほど酷い経験をしています。にもかからず、まるでモグラ叩きのように大モグラを叩いた後でも、あちこちで小モグラが顔を出すのです。
ですから、このバルビローリとハレ管によるシベリウス演奏は、絶対に「過去のもの」にしてしまってはいけない録音だと言えます。