クラシック音楽へのおさそい~Blue Sky Label~



FLAC データベース>>>Top

ベルリオーズ:ヴィオラ独奏付き交響曲 「イタリアのハロルド」


シャルル・ミュンシュ指揮 (va)ウィリアム・プリムローズ ボストン交響楽団 1958年3月31日録音をダウンロード

  1. ベルリオーズ:ヴィオラ独奏付き交響曲 「イタリアのハロルド」 「第1楽章」
  2. ベルリオーズ:ヴィオラ独奏付き交響曲 「イタリアのハロルド」 「第2楽章」
  3. ベルリオーズ:ヴィオラ独奏付き交響曲 「イタリアのハロルド」 「第3楽章」
  4. ベルリオーズ:ヴィオラ独奏付き交響曲 「イタリアのハロルド」 「第4楽章」

もう一つの幻想交響曲



タイトルは「ヴィオラ独奏付き交響曲」となっています。
何ともおかしな「形式」なのですが、それはヴィオラの銘器を手に入れたパガニーニから、そのヴィオラを使って名人芸を披露できる協奏的な作品を依頼されたことがきっかけになっているからです。最初は断ったらしいのですが、ベルリオーズの才能の惚れ込んでいたパガニーニは諦めなかったので、ついにはベルリオーズも乗り気になって取り組むことになった次第なのです。

ところが、やり始めるととめどもなくイメージがふくらんでいくのがベルリオーズの常なので、結局は名人芸を披露するための協奏的な作品ではなくて、「ヴィオラ独奏付きの交響曲」とでも呼ぶしかないような作品になってしまったのです。

この作品はバイロンの長編詩「チャイルド・ハロルド」を下敷きにしているのですが、聞けば分かるようにその音楽は「幻想交響曲」を思い出させるものになってしまっています。
つまりは、そう言う下敷きを隠れ蓑にした、私小説的な音楽になってしまっているのです。

伝えられた話によると、第1楽章が仕上がった時点でパガニーニが様子を見に来たらしいのですが、ヴィオラの休みがあまりにも多いことに不満を述べたというのです。
そして、その事で、ベルリオーズもまた、自分が「書きたい」と思っている音楽とパガニーニが「期待」している音楽は別のものであることを悟り、それ以後は自分の霊感のおもむくままに筆を進めたというのです。

ベルリオーズが考えたのは、独奏ヴィオラを一人の人物に仕立て上げることです。そして、筆が進むにつれてそのハロルドに自分自身の姿を重ね合わせていくようになり、仕上がってみればそのハロルドとは結局はベルリオーズ自身という音楽になっているのです。

第1楽章「山におけるハロルド、憂愁、幸福と歓喜の場面」

独奏ヴィオラが周囲の出来事に遭わせて喜び悲しむという、ハロルドの(と言うことはベルリオーズ自身の)性格を巧みに表す音楽になっています。

第2楽章「夕べの祈祷を歌う巡礼の行列」

巡礼の一群が通り過ぎていく黄昏の景色をハロルドは眺め続けます。巡礼たちは山の小さな教会に立ち寄り、そこで敬虔に賛美歌を歌って、やがてハロルドの前を通り過ぎていきます。ハロルドもまた、その賛美歌にあわせてヴィオラのアルペッジョで加わります。

第3楽章「アブルッチの山人が、その愛人によせるセレナード」

第2楽章が緩徐楽章だとすればこの第3楽章は明らかにスケルツォ的性格を持っています。祭りの舞踏に牧人の愛のセレナードが続き、そのセレナーデに独奏ヴィオラも加わります。

第4楽章「山賊の饗宴、前後の追想」

この饗宴は明らかに幻想交響曲の「悪魔の饗宴」を想起させます。それは、ベルリオーズ自身の自虐的な性格の反映でもあります。
そして、その果てにハロルドは山賊の洞窟に踏み込むもののヴィオラの固定楽想の主題は引きちぎられ、山賊による饗宴は果てしなく続く中で音楽は閉じられます。

それほど録音のたくさんある作品でもないので、今も存在価値の高い一枚です

まずこの録音のポイント幾つかあげるとすれば、真っ先に指を折りたいのは独奏ヴィオラをプリムローズが担当していることです。
「ヴィオラ独奏付き交響曲」なので、協奏曲のようにソリストが活躍できるわけでもない音楽です。
通常のコンサートだと、ソリストが何もすることがなくてボンヤリ立っているだけの場面が多すぎて、名のあるソリストに来て貰うとかえって申し訳ない感じになってしまいまいます。

さらに言えば、元々が名のあるヴィオラのソリストというのはそれほど多くはないのですから、通常はヴィオラの首席奏者がソリストをつとめるのが一般的です。
ですから、プリムローズのようなソリストが独奏ヴィオラを担当していると言うことは極めてポイントが高いのです。そして、プリムローズもまたその期待に十分にこたえて濃厚で表情豊かなハロルドを演じています。(軽めにポルタメントをかけているかな?)

次ぎにあげたいポイントは、そう言うプリムローズの持ち味を十分に生かして、極めて巧みな語り口で音楽を盛りあげていくミュンシュの腕の冴えです。
なんと言ってもミュンシュと言えば「男気」ですから、最後の饗宴の場面などは目一杯にオケを鳴らしてくれています。終楽章ではヴィオラの出番は少ないですし、どうせ最後はそれを引きちぎってしまうのですから、ヴィオラに気を使う必要は全くありません。

しかし、例えば第2楽章の賛美歌などでは、一転して敬虔な雰囲気を描き出し、独奏ヴィオラが活躍できる環境作りに努めます。
そのあたりの切り替えは実に見事で、プリムローズを招いた甲斐がある統率ぶりです。

そして、最後に録音のクオリティの高さです。
ヴァイオリンとは違いヴィオラ特有のやや太めでふっくらとした響きが実に見事に捉えられています。もちろん、オケの質感、音場表現もこの時代のものとしてはトップレベルのクオリティでしょう。
それほど録音のたくさんある作品でもないので、今も存在価値の高い一枚だと言えます。