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ベルリオーズ:幻想交響曲 Op.14

アンドレ・クリュイタン ス指揮 フィルハーモニア管弦楽団 1958年11月4日~5日録音

  1. ベルリオーズ:幻想交響曲 Op.14「第1楽章」
  2. ベルリオーズ:幻想交響曲 Op.14「第2楽章」
  3. ベルリオーズ:幻想交響曲 Op.14「第3楽章」
  4. ベルリオーズ:幻想交響曲 Op.14「第4楽章」
  5. ベルリオーズ:幻想交響曲 Op.14「第5楽章」


ベートーベンのすぐ後にこんな交響曲が生まれたとは驚きです。

私はこの作品が大好きでした。
「でした。」などと過去形で書くと今はどうなんだと言われそうですが、もちろん今も大好きです。なかでも、この第2楽章「舞踏会」が大のお気に入りです。

よく知られているように、創作のきっかけとなったのは、ある有名な女優に対するかなわぬ恋でした。
相手は、人気絶頂の大女優であり、ベルリオーズは無名の青年音楽家ですから、成就するはずのない恋でした。結果は当然のように失恋で終わり、そしてこの作品が生まれました。

しかし、凄いのはこの後です。
時は流れて、立場が逆転します。
女優は年をとり、昔年の栄光は色あせています。
反対にベルリオーズは時代を代表する偉大な作曲家となっています。
ここに至って、漸くにして彼はこの恋を成就させ、結婚をします。

やはり一流になる人間は違います。私などには想像もできない「しつこさ」です。(^^;

しかし、この結婚はすぐに破綻を迎えます。理由は簡単です。
ベルリオーズは、自分が恋したのは女優その人ではなく、彼女が演じた「主人公」だったことにすぐに気づいてしまったのです。
恋愛が幻想だとすると、結婚は現実です。
そして、現実というものは妥協の積み重ねで成り立つものですが、それは芸術家ベルリオーズには耐えられないことだったでしょう。
「芸術」と「妥協」、これほど共存が不可能なものはありません。

さらに、結婚生活の破綻は精神を疲弊させても、創作の源とはなりがたいもので、この出来事は何の実りももたらしませんでした。
狂おしい恋愛とその破綻が「幻想交響曲」という実りをもたらしたことと比較すれば、その差はあまりにも大きいと言えます。

凡人に必要なものは現実ですが、天才に必要なのは幻想なのでしょうか?それとも、現実の中でしか生きられないから凡人であり、幻想の中においても生きていけるから天才ののでしょうか。
私も、この舞踏会の幻想の中で考え込んでしまいます。

なお、ベルリオーズはこの作品の冒頭と格楽章の頭の部分に長々と自分なりの標題を記しています。参考までに記しておきます。

「感受性に富んだ若い芸術家が、恋の悩みから人生に絶望して服毒自殺を図る。しかし薬の量が足りなかったため死に至らず、重苦しい眠りの中で一連の奇怪な幻想を見る。その中に、恋人は1つの旋律となって現れる…」


第1楽章:夢・情熱

「不安な心理状態にいる若い芸術家は、わけもなく、おぼろな憧れとか苦悩あるいは歓喜の興奮に襲われる。若い芸術家が恋人に逢わない前の不安と憧れである。」


第2楽章:舞踏会

「賑やかな舞踏会のざわめきの中で、若い芸術家はふたたび恋人に巡り会う。」


第3楽章:野の風景

「ある夏の夕べ、若い芸術家は野で交互に牧歌を吹いている2人の羊飼いの笛の音を聞いている。静かな田園風景の中で羊飼いの二重奏を聞いていると、若い芸術家にも心の平和が訪れる。
無限の静寂の中に身を沈めているうちに、再び不安がよぎる。
「もしも、彼女に見捨てれられたら・・・・」
1人のの羊飼いがまた笛を吹く。もう1人は、もはや答えない。
日没。遠雷。孤愁。静寂。」


第4楽章:断頭台への行進

「若い芸術家は夢の中で恋人を殺して死刑を宣告され、断頭台へ引かれていく。その行列に伴う行進曲は、ときに暗くて荒々しいかと思うと、今度は明るく陽気になったりする。激しい発作の後で、行進曲の歩みは陰気さを加え規則的になる。死の恐怖を打ち破る愛の回想ともいうべき”固定観念”が一瞬現れる。」


第5楽章:ワルプルギスの夜の夢

「若い芸術家は魔女の饗宴に参加している幻覚に襲われる。魔女達は様々な恐ろしい化け物を集めて、若い芸術家の埋葬に立ち会っているのだ。奇怪な音、溜め息、ケタケタ笑う声、遠くの呼び声。
”固定観念”の旋律が聞こえてくるが、もはやそれは気品とつつしみを失い、グロテスクな悪魔の旋律に歪められている。地獄の饗宴は最高潮になる。”怒りの日”が鳴り響く。魔女たちの輪舞。そして両者が一緒に奏される・・・・」


クリュイタンス唯一のステレオによるスタジオ録音なのですが、何とも言えず分裂症的な不思議な音楽になってしまっています。


クリュイタンスにとって「幻想交響曲」は名刺がわりかと思うほど、あちこちのオーケストラに客演したときにはこの作品を取り上げていたようです。海賊盤を探せば、チェコフィルやケルン放響などで客演したときの録音を探すことが出来ます。
そして、彼がパリ音楽院のオケと来日したときにこの作品を取り上げるのは当然で、その時のライブ録音は今も現役盤でしょうか。

やはり、この作品は「凶暴」に演奏しないと聞き手は納得いかないようです。決定盤と言われることの多いミュンシュ最晩年のパリ管との録音もそのライン上にある演奏でした。
例えば、そう言うドロドロの愛憎劇とは真逆と思えるポール・パレーの録音でも、最終楽章ではベルリオーズのストーカー的妄想を凶暴なまでに爆発させています。

ですから、カラヤンのようにスタイリッシュで精緻な演奏は悪くはないと思うのですが、聞き手にしてみれば「求めているのはそれじゃないんだよ!」と言うことになってしまうのです。そして、そう言うことに聡いカラヤンは後年の録音(74年盤)では教会の鐘の音を別録りをして、えぐいまでの音に仕立て直して音楽の中に組み込んでいます。

つまりはお上品路線はこの作品には似合わないのです。
ところが、クリュイタンスにとっては唯一のステレオによるスタジオ録音がこのフィルハーモニア管との演奏なのですが、何とも言えず分裂症的な不思議な音楽になってしまっています。

冒頭の部分からして、かなり引き締まったスッキリとした音楽が姿を現します。この雰囲気はベルリンフィルとのベートーベン録音を思い出させます。さらに言えば、それはまたフランスのオケではない、さらに言えば、録音がメインの仕事であるフィルハーモニア管が持っているニュートラルな性格が前面に出たものという気もします。

ですから、そこに立ちあらわれるのは愛憎劇と言うよりは清く正しい秘めた片恋の物語です。
第3楽章の「野の風景」もその様ないじらしい青年の殺人劇のように物語は進行していきます。

しかし、これではいけないのです。これで、行儀よく諦めきったようにその青年が断頭台に向かっていったのでは聞き手は納得しないのです。その事はクリュイタンス自身が誰よりもよく理解していたはずです。
なので、第4楽章にはいると、一気にグランカッサを乱打、強打させます。
はっきり言って、そこで音楽は今までの造形を一気に崩壊させます。

おそらく、クリュイタンスは崩壊してもよかったのでしょう。しかし、録音用のオケであるフィルハーモニア管はその崩壊を必死に押しとどめようとします。

普通は崩壊していくオケを指揮者が必死に押しとどめようとするのですが、指揮者が崩壊してもいいと投げ出したものを必死にオケが押しとどめようとするという希有な場面を目撃することが出来ます。
結果として残るのは、何とも言えない荒っぽい雰囲気だけです。

そして、そうなってしまった背景には、この録音に臨むクリュイタンス自身の中で、何度も聞かれる録音なんだからキッチリやろうという心構えでスタートしてしまったことがあるような気がします。おそらく、その決意を最後まで維持すれば「立派な」演奏が実現したことは間違いないと思うのですが、それでは聞き手は喜ばないことを知り尽くしているがゆえに迷いが出てしまったのでしょう。

こういう録音を聞かされると、あらためてライブの演奏会における一回限りの音楽と、繰り返し聞かれることを前提としたスタジオでの録音による音楽は全くの別物であることを再確認させられます。