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サン=サーンス:ピアノ協奏曲 第4番 ハ短調 Op.44

(P)ロベール・カザドシュ:レナード・バーンスタイン指揮 ニューヨーク・フィルハーモニック 1961年10月30日録音

  1. サン=サーンス:ピアノ協奏曲 第4番 ハ短調 Op.44「第1楽章」
  2. サン=サーンス:ピアノ協奏曲 第4番 ハ短調 Op.44「第2楽章」



チェルニーを弾きこなせる腕があるなら何とか演奏が可能

サン・サーンスという音楽家は随分と狷介な性格の持ち主だったようです。その件については、フランクの「ピアノ五重奏曲 ヘ短調」の初演時における献呈を巡る問題でも露わになりました。
そして、その事が、フランクを慕う真面目で才能のあるフランスの若手たちからの恨みを買うことになってしまったのです。

まあ、確かに、フランクがサン=サーンスの素晴らしい演奏を素直に喜こんで楽譜の原稿を贈るためにかけよったのに対して、サン・サーンスは露骨に顔をしかめて楽譜をピアノの上の放り投げてその場を立ち去ったというのは、人としてどうなんだと思ってしまいます。一説によるとゴミ箱に放り投げて帰ったとも伝えられています。

ちなみに、音楽史上希有の聖人だったフランクはそんな仕打ちを受けても全く気にしにしていなかったそうなのですが、彼を慕う若手にしてみれば、それはもう絶対に許せない奴として「髑髏マーク」を20個くらいはつけたはずです。
そして、時が流れて、そう言う若手がその後フランス音楽界の中心に座るようになると、その時につけた「髑髏マーク」を一つずつ投げかえすような思いで、サン=サーンスの作品を片っ端から批判の俎上に上げていったのです。

その気持ち、私もよく分かります!!
そして、その結果としてサン=サーンスと言えば凡庸で時代遅れの音楽を書き続けた音楽家というレッテルが彼への評価として定着してしまったのです。
確かに、サン=サーンスの音楽には時代を切り開いていくような革新性は希薄でした。しかながら、返す刀で「すべてが凡庸」だと決めつけるのは「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の類だと言わざるを得ませんから、いささか行き過ぎだったかもしれません。

なぜならば、サン・サーンスの音楽は何を聴いても外れがないように思うからです。
それは全てがとてつもない傑作だというのではなく、まんべんなく及第点に達していて、そのどれもが奇を衒ったエキセントリックな部分や晦渋な部分がないということです。
決して伝統的な手法を踏み外すことなく、常に完成度の高い作品を生みだし続けたゆえに「保守派」のレッテルを貼られた人物ですが、しかし、この完成度の高さはそう簡単にまねができるものではないのです。

しかし、それもまた己の身から出た錆と言う面もあります。それくらいに、彼は「イヤな奴」だったようです。
しかし、常に指摘していることですが音楽と人格は別物です。もしも、それがリンクしていたならば、私たちが聞くに値する音楽はほとんどなくなってしまいます。

彼は生涯に5曲のピアノ協奏曲を書きましたが、この第4番はその中でも最もユニークな構造をしています。
まず、全体が2楽章からできており、それぞれがまた二つの部分からできているという形式は、彼の代表作であるオルガン付きと同じです。

そのために、彼のピアノ協奏曲の中では最も交響的ながっしりとした作りになっています。と言うよりは、この作品では独奏ピアノは可哀想なまでにオーケストラに付き従っています。
ただし、これをピアノ独奏付きの交響曲なんて言うと彼を生涯許さなかった若手音楽家たちから「そんな立派なものか!」と言われそうなので、もう少し控えめに「ピアノ独奏付きの管弦楽曲」みたいだと言っておきましょう。(^^;

また、聞けば分かるように、最初に提示された主題が何度も登場してきます。このやり方は、その後フランクが「循環形式」として定着させたもので、これはその先駆けとも言うべき作品です。

それから、これは中村紘子の受け売りですが、この第4番に限らず彼のピアノ協奏曲はチェルニーを弾きこなせる腕があるなら何とか演奏が可能だそうです。
そのレベルでこれだけの音楽を仕上げるというのは意外とすごいことだと思うのですが、いかがなものでしょうか。

カサドシュには主役ではなくて平然と脇役に回れる資質があったようです


カサドシュはこのサン=サーンスの協奏曲はお気に入りだったのか、40年代にはロジンスキー、50年代にもオーマンディとのコンビで録音を残しています。
普通に考えれば、こういうスタイルの協奏曲が「好き」なピアニストというのは、普通はいないように思うのです。作品の始めから最後まで、どこをとってみてもオーケストラが前面に出てきて、ピアノはひたすらそれに付き従っていくだけのような音楽です。

さらに言えば、そのピアノ独奏も凄い名人芸が必要ななものでは全くありません。
言葉は悪いですが、ピアノ専攻の音大生で少し腕の立つ奴を連れてきてもそれなりに演奏としては成立してしまう音楽なのですから、プロのピアニストにとってはそんなに嬉しい作品とは到底言えないのです。

しかし、そこにこそ、カサドシュというピアニストの本質の一端があらわれているのかもしれません。
確かに、ここ1~2ヶ月、カッチェンのピアノを集中して聞いてきたのですが、あの冴えわたった響きはカサドシュにはありません。粒立ちのよい鮮やかな切れ味も及びません。その意味では、明らかにソリストとしてのカサドシュは一流とは言い難いのかもしれません。

しかし、彼には普通のピアニストならば絶対にやれないことを平然とやってのけられる資質があったようなのです。それは、主役ではなくて平気で脇役に回れる資質です。
そして、その資質が遺憾なく発揮されたのが、セルとのコンビによるモーツァルトの協奏曲録音でした。詳しいことはもう繰り返しませんが、世間からどれほどピアノは駄目だと批判されようと、あの録音はカサドシュというピアニストがいなければ絶対に成立しない録音だったことは事実です。

そう言えば、俳優の世界でも誰もが主役を張れるような俳優を目指すのですが、それは努力ではどうしようもない世界です。それは、まずは神に選ばれていることが絶対条件であり、その上で努力を積み重ねた結果に幸運の女神がほほ笑んでくれれば実現するものなのです。
ですから、最初から神に選ばれていない人は名脇役を目指すべきなのですが、残念なことにほとんどの人は主役の夢が叶わなければ演劇の世界を去っていくのです。
そして、おかしな話なのですが、結果として主役を張れる人は次々に供給されても、それを脇で支えることの出来る優秀な脇役は常に不足しているのです。

そして、こういう脇に徹することの出来るソリストというのは、クラシック音楽の世界ではもっと貴重かもしれないのです。
ここでの主役は疑いもなくバーンスタインです。そして、バーンスタインはカサドシュという名脇役を得て、実に楽しそうに指揮棒を振っている姿が目に浮かぶようです。

どれだけ好き勝手オケを鳴らしまくって、その結果として独奏ピアノが全く聞こえなくなっても、カサドシュほとんど気にすることなく演奏し続けてくれるのです。
結果として、オケのバランスなどと言う「些細(普通は些細ではないのですが)」な問題に気を使う必要もなく、自由に己のイマジネーションを広げています。

そして、若い時代のバーンスタインは、こういう演奏される機会があまり多くない作品になると、俄然やる気が出て自由に己のイマジネーションを広げることが出来た人でした。ベートーベンやブラームスでは実に行儀がよかったのが嘘みたいに、彼はそう言う作品では自由になれたのです。そして、結果としてこういう作品においてこそ、若きバーンスタインの凄さが聞き手にしっかりと伝わってくるのです。

そして、それをしっかりとサポートしているのが疑いもなくカサドシュです。
主役というのは自分一人がどれだけしゃかりきに頑張っても本当に光るものではありません。その輝きを生かすも殺すも脇役次第です。そして、そこにこそカサドシュというピアニストの持ち味があったことにあらためて気づかせてくれた録音でした。