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モーツァルト:交響曲第40番 ト短調 k.550


ジョージ・セル指揮 クリーブランド管弦楽団 1967年8月25日録音をダウンロード

  1. モーツァルト:交響曲第40番 ト短調 k.550 「第1楽章」
  2. モーツァルト:交響曲第40番 ト短調 k.550 「第2楽章」
  3. モーツァルト:交響曲第40番 ト短調 k.550 「第3楽章」
  4. モーツァルト:交響曲第40番 ト短調 k.550 「第4楽章」

これもまた、交響曲史上の奇跡でしょうか。



モーツァルトはお金に困っていました。1778年のモーツァルトは、どうしようもないほどお金に困っていました。
1788年という年はモーツァルトにとっては「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」を完成させた年ですから、作曲家としての活動がピークにあった時期だと言えます。ところが生活はそれとは裏腹に困窮の極みにありました。
原因はコンスタンツェの病気治療のためとか、彼女の浪費のためとかいろいろ言われていますが、どうもモーツァルト自身のギャンブル狂いが一番大きな原因だったとという説も最近は有力です。

そして、この困窮の中でモーツァルトはフリーメーソンの仲間であり裕福な商人であったブーホベルクに何度も借金の手紙を書いています。
余談ですが、モーツァルトは亡くなる年までにおよそ20回ほども無心の手紙を送っていて、ブーホベルクが工面した金額は総計で1500フローリン程度になります。当時は1000フローリンで一年間を裕福に暮らせましたから結構な金額です。さらに余談になりますが、このお金はモーツァルトの死後に再婚をして裕福になった妻のコンスタンツェが全額返済をしています。コンスタンツェを悪妻といったのではあまりにも可哀想です。
そして、真偽に関しては諸説がありますが、この困窮からの一発大逆転の脱出をねらって予約演奏会を計画し、そのための作品として驚くべき短期間で3つの交響曲を書き上げたと言われています。
それが、いわゆる、後期三大交響曲と呼ばれる39番?41番の3作品です。

完成された日付を調べると、39番が6月26日、40番が7月25日、そして41番「ジュピター」が8月10日となっています。つまり、わずか2ヶ月の間にモーツァルトは3つの交響曲を書き上げたことになります。
これをもって音楽史上の奇跡と呼ぶ人もいますが、それ以上に信じがたい事は、スタイルも異なれば性格も異なるこの3つの交響曲がそれぞれに驚くほど完成度が高いと言うことです。
39番の明るく明晰で流麗な音楽は他に変わるものはありませんし、40番の「疾走する哀しみ」も唯一無二のものです。そして最も驚くべき事は、この41番「ジュピター」の精緻さと壮大さの結合した構築物の巨大さです。
40番という傑作を完成させたあと、そのわずか2週間後にこのジュピターを完成させたなど、とても人間のなし得る業とは思えません。とりわけ最終楽章の複雑で精緻きわまるような音楽は考え出すととてつもなく時間がかかっても不思議ではありません。
モーツァルトという人はある作品に没頭していると、それとはまったく関係ない楽想が鼻歌のように溢れてきたといわれています。おそらくは、39番や40番に取り組んでいるときに41番の骨組みは鼻歌混じりに(!)完成をしていたのでしょう。
我々凡人には想像もできないようなことではありますが。

きわめて特異な環境下で録音されたト短調シンフォニー

いろいろな意味で、セルを語る上では曰く因縁の多い録音です。
言うまでもないことですが、演奏に関しては申し分ありません。おそらく、モダン楽器を使ってここまで精緻にモーツァルトの世界を描き出した演奏は他には思い当たりません。それどころか、逆説的に言えば、モダン楽器でここまでの精度と透明感で演奏されてしまったがゆえに、ピリオド楽器による演奏という方法論に多くの人を追いやったのではないかとすら思えるのです。

吉田秀和はセルの演奏を宋時代の白磁にたとえましたが、その喩えがもっとも相応しいのがモーツァルトの録音であり、そのモーツァルト録音の中でももっとも硬質な透明感に貫かれているのはこのト短調シンフォニーの録音です。

そして、この録音を聞いていて、ふと頭をよぎったのは上村松園の美人画でした。

あそこには、極限までに抽象化され純化された女性の美がありました。
不思議な話ですが、男の画家が美人画を描くと、どれほど避けようとしても何らかの「いやらしさ」を排除しきるのは不可能です。そして、女性の本当の美しさというものは、その様な「いやらしさ」も含めて成り立っているのが現実だと思うのですが、松園が描く女性にはその様な現実を超越した高度に純化され理想化された美がありました。

そして、それと同じようなことをこのセルの手になるモーツァルトにも感じてしまうのです。

「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香高い珠玉のような絵こそ私の念願とするところのものである。」

この松園の言葉は、そのままセルの音楽にも適用できます。

「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香高い珠玉のよう音楽こそ私の念願とするところのものである。」

これがセルの言葉だと言われれば、ほとんどの人はなるほどその通りだと受け取ってしまうでしょう。
まさに、ここには一点の卑俗なところもない、極度に純化された透明感に貫かれた美しいモーツァルトが存在しているのです。

ならば、なんの問題もないのであって、何も「曰く因縁」などという必要はないように思われるかもしれません。しかしながら、よく知られているように、この録音のクオリティに関しては様々な問題が指摘されてきたのです。
そして、その問題点はファーストヴァイオリンの響きのきつさに集約されてきました。

この録音のファーストヴァイオリンの響きがきつくならないように再生できるプレーヤーがあれば教えてほしいという声も良く聞いたものです。

そして、この事実が、セルの演奏は素晴らしくても録音のクオリティは低いという「評価」をつくり出し、そのクオリティの低さが「Epic」というレーベルの問題として指摘されてきたのです。

まず、録音クオリティに関する問題について言えば、この「きつさ」を回避するために「丸め込む」方向で調整すればほぼ100%失敗します。
必要なのは「丸め込む」のではなくて、それとは真逆の方向で調整することです。
「入力系」の純度を出来る限りあげて高域方向を伸ばしていけば、この「きつさ」はある時点で天井が取り払われたようにスッと延びるようになります。

しかし、今回ここでふれたいのはその様な再生に関するノウハウの問題ではありません。
今まで自分でも気づかなかったのは馬鹿すぎると思わざるを得ないような事であり、不思議なことにその事を指摘している人は誰もいないようなのです。

持って回った言い方で申し訳ないのですが、セルとクリーブランド管の録音は一般的には彼らの本拠地である「セヴェランス・ホール」で行われています。「セヴェランス・ホール」が録音に適した優秀なホールだという話は聞いたことはないのですが、酷いという話も聞いたことがないので、それはきわめて妥当な選択だったことでしょう。
少なくとも、「セヴェランス・ホール」で鳴り響く音こそがクリーブランド管の響きなのですから。

ところが、このト短調シンフォニーの録音クレジットを今回何気なくチェックしていると「1967年8月25日, London」となっていることに気づいたのです。
最初は「誤植」だと思いました。

たかがモーツァルトの交響曲を1曲だけ録音するために、セルがクリーブランド管のメンバーを引き連れてロンドンに出かけていく必要がないからです。
しかし、さらに調べてみると、この録音は間違いなくEMIの「EMI Recording Studios」で行われているのです。
「EMI Recording Studios」はビートルズの世界的大成功に伴って「Abbey Road Studios」と改名されて、そちらの方が通りがいいかもしれません。

それにしても、これは謎です。
しかし、さらに調べてみると、この年の8月にセルとクリーブランド管はルツェルンとザルツブルグの音楽祭に招待されて演奏会を行っていることが分かりました。この時に、セルとカラヤンはお互いのオケを交換して指揮をしていることが知られています。
8月25日の録音と言うことは、その音楽祭での演奏会を終えてアメリカに帰る途中でイギリスに立ち寄って録音したようなのです。

それにしても、CBSレーベル傘下のセルとクリーブランド管が、わざわざロンドンに立ち寄って「EMI Recording Studios」で録音をする必要がどこにあったのかは謎です。
勘ぐれば、この後セルとクリーブランド管はCBSからEMIに契約を切り替えることになるのですが、そのあたりの下調べみたいなことも含めてセルが強引にこのセッションを提案したのかもしれません。

ただし、録音はCBSレーベルのもとで行われましたから、残された記録によるとEMIの技術陣はタッチはしていないようです。
そう考えてみると、この録音はクオリティを云々する前に、きわめて特異な環境下で録音されたことにもっと速く気づくべきだったのです。

セルとクリーブランド管にしてみれば、こういうスタジオに詰め込まれて録音するという敬虔はほとんどなかったでしょう。
CBSの技術陣にしても勝手の分からないスタジオでの録音となれば随分手間取ったはずだと思うのですが、旅の途中ということで時間をかけることも出来なかったようです。

おそらくはそれほどの調整も出来ず、ほとんど「素」の状態で商品化されてしまった可能性があります。
そう言う意味では、ユーザーによっては手強い録音だと言うことになるのです。

もちろん、優秀録音だとはお世辞にも言えないのですが、世間で言われるほど問題の多い録音でもありません。ただし、問題の多い録音と受け取られてしまう課題は間違いなく抱えています。
そして、セルを代表するような名演が、かくも「特異」な形で録音として残ってしまったことが、結果としてセルの録音はクオリティが低いと思われる重要な要因となったというのは皮肉と言わざるを得ません。

とは言え、これは実に不思議な録音だったと言わざるを得ません。