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シューベルト:交響曲第8番 ロ短調 D.759 「未完成」
アンドレ・クリュイタンス指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 1960年11月25日録音をダウンロード
わが恋の終わらざるがごとく・・・
この作品は1822年に作曲をされたと言われています。
シューベルトは、自身も会員となっていたシュタインエルマルク音楽協会に前半の2楽章までの楽譜を提出しています。
協会は残りの2楽章を待って演奏会を行う予定だったようですが、ご存知のようにそれは果たされることなく、そのうちに前半の2楽章もいつの間にか忘れ去られる運命をたどりました。
この忘れ去られた2楽章が復活するのは、それから43年後の1965年で、ウィーンの指揮者ヨハン・ヘルベックによって歴史的な初演が行われました。
その当時から、この作品が何故に未完成のままで放置されたのか、様々な説が展開されてきました。
有名なのは映画「未完成交響楽」のキャッチコピー、「わが恋の終わらざるがごとく、この曲もまた終わらざるべし」という、シューベルトの失恋に結びつける説です。
もちろんこれは全くの作り話ですが、こんな話を作り上げてみたくなるほどにロマンティックで謎に満ちた作品です。
前半の2楽章があまりにも素晴らしく、さすがのシューベルトも残りの2楽章を書き得なかった、と言うのが今日の一番有力な説のようです。しかし、シューベルトに匹敵する才能があって、それでそのように主張するなら分かるのですが、凡人がこんなことを勝手に言っていいのだろうかとためらいを覚えてしまいます。
そこで、私ですが、おそらく「興味」を失ったんだろうという、それこそ色気も素っ気もない説が意外と真実に近いのではないかと思っています。
この時期の交響曲はシューベルトの主観においては、全て習作の域を出るものではありませんでした。
彼にとっての第1番の交響曲は、現在第8(9)番と呼ばれる「ザ・グレイト」であったことは事実です。
その事を考えると、未完成と呼ばれるこの交響曲は、2楽章まで書いては見たものの、自分自身が考える交響曲のスタイルから言ってあまり上手くいったとは言えず、結果、続きを書いていく興味を失ったんだろうという説にはかなり納得がいきます。
ただ、本人が興味を失った作品でも、後世の人間にとってはかけがえのない宝物となるあたりがシューベルトの凄さではあります。
一般的には、本人は自信満々の作品であっても、そのほとんどが歴史の藻屑と消えていく過酷な現実と照らし合わせると、いつの時代も神は不公平なものだと再確認させてくれる事実ではあります。
ゆったりと深々とした息づかいでシューベルトの切ないまでの憧れを歌い上げている
クリュイタンスがベルリンフィルと「未完成」を録音していたとは知りませんでした。そして、ベートーベンの交響曲全集を録音した「おまけ」みたいなものだろうと思って聞き始めてみると、それが驚くほどに素晴らしい演奏だったのでさらに驚かされるのです。そして、これほどに素晴らしい演奏がほとんどスルーされていることにも驚くのです。
ただし、偉そうなことは言えません。
こう書いている私も、この録音は全く視野に入っていなかったのです。
ですから、この録音がスルーされているのは、演奏は聞いたけれど今ひとつ良くなかったのでスルーしたと言うよりは、ほとんどの人にとってこの録音は視野に入っていなかったのでしょう。
そう思えば、こういうサイトでこのような録音を紹介することにはそれなりの意味があるというものです。
さすがに、最近は下火になりましたが、シューベルトの交響曲でもピリオド楽器を使った演奏が席巻したときがありました。
多くのレーベルがそう言うムーブメントにのって新譜をリリースしてくるのですから、「レコード評論家」達はそれを売るために褒めなければいけなかったでしょう。
もちろん、それなりに一つの解釈として興味深いものもあったことも事実なのですが、それでもワルターの古いSP盤や新しいステレオ録音でこの作品になじんできたものにとっては、到底しっくりと心になじむものではありませんでした。
もちろん、そう言う態度はマーラー風に言えば「伝統とは怠惰の別名」かもしれないのですが、それでも何度聞いても心になじまないものを無理して聞き続けるほど人生は長くはありません。
他者の新しい提案に耳を傾ける謙虚さは必要ですが、自分の心に従う正直さも必要です。
そして、その二つが矛盾するとすれば、従うべきは謙虚さではなくて正直さです。
話はそれますが、人生においても他者からの忠告には耳を傾ける謙虚さは必要ですが、その忠告に「真心」がないと分かれば、そう言う手合いとは永遠に手を切るべきなのです。とりわけ、「年寄り」の忠告というものの大部分はその人のためというよりは、自分の「偉さ」を誇示するために為されることが多いので、若者は注意すべきです。
そして、そう言う素直な心(^^;にとって、このクリュイタンスの演奏は実に心にしっくりとなじむ演奏です。
シューベルトのこの音楽に潜んでいるのは若さゆえの希望の切なさです。それは切ないまでの憧れであり、もしかしたらそこには永遠に手が届かないかもしれないという恐れと身もだえが影を落とすのです。
そう言う音楽を強めのアーティキュレーションで、さらに言えば色んな楽器の響きがクッキリと賑やかに聞こえてくるように演奏されたのでは、到底心になじむはずもありません。
それと比べれば、クリィタンスの演奏は実にゆったりとしていて、深々とした息づかいでシューベルトの切ないまでの憧れと身もだえを歌い上げてくれます。
面白いと思ったのは、ベートーベンの交響曲では頑固なまでのインテンポの鬼と化していたのが、ここではそう言う力みがすっかり取れていることです。
そして、ベルリンフィルもピッチを高めに調節したドーピングは未だ為されていないようで、昔ながらの生成りの風合いがこの演奏には実に相応しく思えます。
ネット上を散見すると、このベルリンフィルの響きを「明るめ」と書いている方が多いのですが、ベートーベンの時よりもやや分厚めの低域の上にバランス良く楽器を積み重ねているように聞こえます。そして、それこそが伝統的なヨーロッパの響きであり、後のカラヤンによってドーピングされることで失われてしまった響きなのです。
決して明るめの響きという感じはしません。
ただし、誤解のないように申し添えておきますが、そう言うカラヤンの響きを否定しているわけではありません。
あのカラヤン美学は疑いもなく20世紀におけるオーケストラ美学の一つの頂点です。ただし、クラシック音楽という懐の深い世界では頂点は一つではないということを言いたいだけなのです。