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シューベルト:交響曲第8番 ロ短調 D.759 「未完成」


ロジンスキー指揮 ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽 1956年9月録音をダウンロード

  1. シューベルト:交響曲第8番 ロ短調 D.759 「未完成」「第1楽章」
  2. シューベルト:交響曲第8番 ロ短調 D.759 「未完成」「第2楽章」

わが恋の終わらざるがごとく・・・



この作品は1822年に作曲をされたと言われています。
シューベルトは、自身も会員となっていたシュタインエルマルク音楽協会に前半の2楽章までの楽譜を提出しています。
協会は残りの2楽章を待って演奏会を行う予定だったようですが、ご存知のようにそれは果たされることなく、そのうちに前半の2楽章もいつの間にか忘れ去られる運命をたどりました。

この忘れ去られた2楽章が復活するのは、それから43年後の1965年で、ウィーンの指揮者ヨハン・ヘルベックによって歴史的な初演が行われました。

その当時から、この作品が何故に未完成のままで放置されたのか、様々な説が展開されてきました。

有名なのは映画「未完成交響楽」のキャッチコピー、「わが恋の終わらざるがごとく、この曲もまた終わらざるべし」という、シューベルトの失恋に結びつける説です。
もちろんこれは全くの作り話ですが、こんな話を作り上げてみたくなるほどにロマンティックで謎に満ちた作品です。  

前半の2楽章があまりにも素晴らしく、さすがのシューベルトも残りの2楽章を書き得なかった、と言うのが今日の一番有力な説のようです。しかし、シューベルトに匹敵する才能があって、それでそのように主張するなら分かるのですが、凡人がこんなことを勝手に言っていいのだろうかとためらいを覚えてしまいます。

そこで、私ですが、おそらく「興味」を失ったんだろうという、それこそ色気も素っ気もない説が意外と真実に近いのではないかと思っています。

この時期の交響曲はシューベルトの主観においては、全て習作の域を出るものではありませんでした。
彼にとっての第1番の交響曲は、現在第8(9)番と呼ばれる「ザ・グレイト」であったことは事実です。

その事を考えると、未完成と呼ばれるこの交響曲は、2楽章まで書いては見たものの、自分自身が考える交響曲のスタイルから言ってあまり上手くいったとは言えず、結果、続きを書いていく興味を失ったんだろうという説にはかなり納得がいきます。

ただ、本人が興味を失った作品でも、後世の人間にとってはかけがえのない宝物となるあたりがシューベルトの凄さではあります。
一般的には、本人は自信満々の作品であっても、そのほとんどが歴史の藻屑と消えていく過酷な現実と照らし合わせると、いつの時代も神は不公平なものだと再確認させてくれる事実ではあります。

弱音部おける微妙な光と影の交錯がシューベルトの切ないまでの憧れを浮かび上がらせる

ロジンスキーという男の経歴を調べていると、一つだけ「おやっ!」と思うことがあります。

それはニューヨークフ・フィルの音楽監督のポジションを手に入れながらも、音楽的により上の世界を目指してコンサート・マスターも含めて「血の粛清」を行ったために首になったというような話ではありません。
そうではなくて、そうやってニューヨークを追われた先のシカゴでも膨大な赤字を出したために再び首になった時に(^^;、シカゴ・トリビューンのキャシディが擁護したというエピソードの方です。

このキャシディの辛口評論はもはや伝説となっているもので、シカゴで活動した指揮者のほとんどが血祭りになっているのです。
そのもっとも手酷い洗礼を受けたのがクーベリックであり、シカゴに客演したショルティもかなり痛い目に遭っています。ですから、ショルティがシカゴの音楽監督を依頼されたときには、このキャシディがすでに引退していることを確認してから受諾したという話も伝わっているほどなのです。

そんなキャシディが珍しくも擁護する側にまわったのがロジンスキーだったのです。
もしかしたら、お互いにトラブル・メーカーとしてのシンパシーがあったのかもしれませんが、もう一人攻撃の矛先が鈍かったのがフリッツ・ライナーだと知れば、彼女のスタンスも見えてこようかというものです。
おそらく、キャシディが高く評価したのは音楽の構造を精緻に分析する力と、その分析した音楽の形を現実のものにするためには一切の妥協を許さない姿勢だったはずです。

私が彼の録音をそれなりに意識してはじめて聞いたのはチャイコフスキーの交響曲でした。
その時に、「不思議」な音楽だと思いながら、トスカニーニでもないし、セルやライナーでもない、やはり「ロジンスキー」という男ならではの「熱い音楽」があると思ったものでした。
そして、この「熱さ」ゆえにでしょうか、ロジンスキーのことをウィキペディアでは「彼はウエストミンスターにかなりの数の録音を遺しており、ディテールやニュアンスにこだわるよりは、スピード感や色彩感を優先させつつ、いわゆる爆演系の指揮を行なったことがうかがわれる。」などとかれているのです。

チャイコフスキーの録音が「爆演系」とは思いませんが、「ディテールやニュアンスにこだわるよりは、スピード感や色彩感を優先」しているというのはその通りだと思います。
しかし、何でもかんでも「スピード感や色彩感を優先」していたのでは、あのキャシディが擁護するはずはないのです。
その事は、ショルティが彼女を恐れたことからして容易に察せられます。

そうではなくて、ロジンスキーは、その音楽に「スピード感や色彩感」が重要だと思えばその様に造形しますし、逆に「ディテールやニュアンス」が大切だと思えばその様に造形するのです。
その好例がこの「未完成」の録音でしょう。

これを聞いて、ロジンスキーのことを「爆演系の指揮者」だと思う人がいるならば手を挙げて欲しいものです。
ここでのロジンスキーは大袈裟な身振りは一切排して、表現の振幅を可能な限り小さくしていることに気づかされます。そして、その狭い振幅の中におさめられているディテールやニュアンスの多様さには驚くべきものがあるのです。

有り難いことに、さすがのウェストミンスターもこの56年の録音からはモノラルからステレオに移行しています。
おそらくワンポイント録音に近い形で録音されたと思うのですが、そう言う微妙なニュアンスは見事におさめられています。
ですから、56年という古い録音ではあるのですが、その微妙なディテールやニュアンスが正確に再生できるかどうかによって、この演奏の評価は大きく変わってしまいます。

もしも、再生装置にその力がなければ、そう言う細部がノッペリと塗りつぶされてしまいますから、スタイリッシュであってもどこかモノトーンのつまらない演奏という評価を下すでしょう。
逆に、その部分がきちんと再生できれば、とりわけ弱音部おける微妙な光と影の交錯がシューベルトの切ないまでの憧れを浮かび上がらせることになります。

そのあたりが、レコードを評価するときの難しさだと言えます。
そして、おそらくは、永遠に解決しない課題でもあるのでしょう。