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ムソソルグスキー:展覧会の絵(ラヴェル編曲)


ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 1965年11月4日&9日録音をダウンロード

  1. Mussorgsky:Pictures at an Exhibition [1.Promenade 1]
  2. Mussorgsky:Pictures at an Exhibition [2.Gnomus]
  3. Mussorgsky:Pictures at an Exhibition [3.Promenade 2]
  4. Mussorgsky:Pictures at an Exhibition [4.The Old Castle]
  5. Mussorgsky:Pictures at an Exhibition [5.Promenade 3]
  6. Mussorgsky:Pictures at an Exhibition [6.The Tuileries Gardens]
  7. Mussorgsky:Pictures at an Exhibition [7.Bydlo]
  8. Mussorgsky:Pictures at an Exhibition [8.Promenade 4]
  9. Mussorgsky:Pictures at an Exhibition [9.Ballet of the Chickens in Their Shells]
  10. Mussorgsky:Pictures at an Exhibition [10.Samuel Goldenberg and Schmuyle]
  11. Mussorgsky:Pictures at an Exhibition [11.The Market-place at Limoges]
  12. Mussorgsky:Pictures at an Exhibition [12.The Catacombs (Sepulchrum romanum)]
  13. Mussorgsky:Pictures at an Exhibition [13.Cum mortuis in lingua mortua]
  14. Mussorgsky:Pictures at an Exhibition [14.The Hut on Fowl's Legs (Baba-Yaga)]
  15. Mussorgsky:Pictures at an Exhibition [15.The Great Gate of Kiev]

今までの西洋音楽にはない構成



組曲「展覧会の絵」は作曲者が35歳の作品。親友の画家で建築家のヴィクトール・ガルトマン(1834〜1873)の遺作展が開かれた際に、そのあまりにも早すぎる死を悼んで作曲されたと言われています。
彼は西洋的な音楽語法を模倣するのではなく、むしろそれを拒絶し、ロシア的な精神を音楽の中に取り入れようとしました。
この「展覧会の絵」もガルトマンの絵にインスピレーションを得た10曲の作品の間にプロムナードと呼ばれる間奏曲風の短い曲を挟んで進行するといった、今までの西洋音楽にはない構成となっています。
よく言われることですが、聞き手はまるで展覧会の会場をゆっくりと歩みながら一枚一枚の絵を鑑賞しているような雰囲気が味わえます。

作品の構成は以下のようになっています。

「プロムナード」
1:「グノームス」
2:「古い城」
「プロムナード」
3:「チュイルリー公園」
4:「ヴィドロ」
「プロムナード」
5:「殻をつけたままのヒヨコのバレエ」
6:「ザムエル・ゴールデンベルクとシュミイレ」
「プロムナード」
7:「リモージュの市場」
8:「カタコムベ(ローマ人の墓地)」
9:「ニワトリの足に立つ小屋(ババヤーガ)」
10:「雄大な門(首都キエフにある)

これほど華麗な響きで精緻にくみ上げた「展覧会の絵」は他には存在しないでしょう

おそらくこの録音はブラインドで聞かされても、かなりの方がカラヤンの演奏だと言い当てることが出来るでしょう。それほどまでに、カラヤンの色に染め上げられた演奏であり、オケの音色です。
そして、それはカラヤン以外の誰もが作り出せなかった色なのですから、「ドイツのミニ・トスカニーニ」から抜け出して、過去のいかなる「巨匠」達とも異なるカラヤン独自の世界を模索し続けた男にとっては、疑いもなくそれは一つの到達点でした。

振り返ってみれば、ベルリンフィルのシェフの地位を手に入れてからも、それこそ辛抱に次ぐ辛抱を重ねてオケの色を自分なりの色に染め上げていくのに10年という歳月が必要だったわけです。カラヤンといえば常に「帝王」という言葉が結びつくので、何となく自分のやりたい事をやりたい放題に進めてきたように誤解されるのですが、彼の凄いのは、それとは裏腹に、辛抱に辛抱を重ねて地道に時間をかけて自分のやりたいことを浸透させていったことです。

ただし、これもまた当然の事ながら、そうやって自分なりの流儀で染め上げていけば、そこには様々な批判も伴います。強い自己主張のあるところには批判は付きものですから、それは決してカラヤンへの評価を下げるものではありません。
ですから、この演奏は「アンチ・カラヤン」にとってはいよいよ我慢ならない演奏であり、逆に、このカラヤン流の演奏に魅せられた多くの人にとっては、いよいよカラヤンが本来の姿に変身を遂げたと拍手喝采することでしょう。

おそらく、これほど華麗な響きで精緻にくみ上げた「展覧会の絵」は他には存在しないでしょう。
そして、カラヤンは悠然たる歩みで美術館の中を巡り、その一枚一枚の絵の細部を入念に堪能しています。おそらく、時計で計測すれば、これはかなり遅めのテンポ設定になっていると思うのですが、引きずったような重さは全く感じません。
感じるのは、悠然たる歩みと一枚一枚の絵を眺める視線の丁寧さだけです。

ですから、これは基本的に細部優先の演奏になっています。
おそらく、ムソルグスキーがスコアとして表現した絵の細部を徹底的にこだわり抜いて表現していますから、リハーサルの段階ではそう言う細かい部分を徹底的に繰り返したはずです。そして、その徹底的に仕上げた細部の響きを最後の商品段階としてのレコードにおいても保障されるように、編集と音決めにまでカラヤンは介入したはずです。
ですから、この華麗にして精緻な響きは、マルチ録音による編集という助けも借りて磨き上げられた事が手に取るように分かります。

率直に言って、私はこのような音づくりは好きではありませんが、何度も繰り返し聞かれることを前提としたレコードの音づくりということを考えれば、これはこれで一つの見識かもしれません。
最後の「キエフの大門」における空前絶後の盛り上がりなどは、その様な録音と編集を経なければ実現できないものです。

しかしながら、そう言う演奏と録音に関して、否定的な考えをもつ人がいることも事実です。
真っ先に出てきそうな意見は、これはカラヤンの「展覧会の絵」であって、ムソルグスキーの「展覧会の絵」ではないというものでしょう。

ここで、カラヤンが歩を進める美術館は、近代的な美術館であり、その展示室の隅々にまで光が当てられています。ですから、そこに展示されている絵画もまた隅から隅までクッキリと光によって照らし出されています。
しかし、古いヨーロッパの美術館というものは古い宮殿を転用したところも多くて、そこでは光と影が交錯します。
ムソルグスキーが思い浮かべていた美術館はどのようなものかは分かりませんが、おそらく、このカラヤンが歩を進める美術館とは随分おもむきが違ったはずです。そして、そこに展示された一枚一枚の絵についても随分とグロテスクな物も混じっていて、そこにムソルグスキーならではの強烈な自己が投影されていました。

そう言うムソルグスキーの原曲がもっていた強烈な自己表出力のようなものはラヴェルの編曲によって洗練された姿へと変化させられたのですが、それがカラヤンの解釈によってその洗練が極値にまで磨き上げられることになったのです。

とは言え、演奏という行為は基本的には「主情的」なものです。それは「原典尊重」を錦の御旗にしたトスカニーニからライナー、セルにいたる系譜においても同様です。
そして、それが強い主情に根ざしているがゆえに、ただただスコアをなぞっただけの自称「作曲家の意志に忠実」な「味も素っ気もない演奏」とは一線を画すことが出来ているのです。

ですから、このカラヤンの演奏に対して、演奏に主情を持ち込むこと自体を批判するのは全くお門違いであり、大切なのはその主情に聞き手が共感できるか否かこそが重要なのです。そして、この華麗にして精緻極まる「展覧会の絵」に多くの人は拍手喝采をおくったのです。
この演奏と録音の素晴らしいできあがり具合を見れば、それは実に当然のことだったと言えます。

しかしながら、ではお前はどうなのかと聞かれれば、その立派さには心底感心させられるものの、それでも、最後の「キエフの大門」が壮麗なクライマックスでもって曲が閉じられるときに、どこか違うだろうという気持ちも否定できないのです。
もちろん、カラヤンは強い確信を持って「これでいいのだ!!」と言い切ってはいるのですが・・・。