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ベートーベン:ピアノソナタ第7番 ニ長調 作品10の3

(P)クラウディオ・アラウ 1964年9月録音

  1. ベートーベン:ピアノソナタ第7番 ニ長調 作品10の3 「第1楽章」
  2. ベートーベン:ピアノソナタ第7番 ニ長調 作品10の3 「第2楽章」
  3. ベートーベン:ピアノソナタ第7番 ニ長調 作品10の3 「第3楽章」
  4. ベートーベン:ピアノソナタ第7番 ニ長調 作品10の3 「第4楽章」

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新しいスタイルを模索するベートーベン

"3つのピアノソナタ"としてまとめて発表されていますが、一つ一つがユニークさをもっていて、意欲満々で新しい形式を模索するベートーベンの姿を感じ取ることができます。曲の配列は作品2の時と同じで、ここでもハ短調のソナタを1番に持ってきて、最も演奏効果の高いニ長調のソナタを最後に持ってきています。
そう言えば、チャールズ・ローゼンはこの3曲のことを「彼は情熱的な英雄気取りで1曲目をはじめ、より機知に富んだ2曲目へと続き、雄大な広がりを見せて3曲目を終えている」と述べています。

そして、この中で一番ユニークであり優れているのがピアノソナタ第7番の第2楽章です。
"ラルゴ・エ・メスト"と記されたこの楽章は、ベートーベン自身が「悲しんでいる人の心のありさまを、様々な光と影のニュアンスで描こうとした」ものだと語っています。
"メスト(悲しみ)"と記されているように、ベートーベンの初期作品の中では際だった深刻さを表出している作品です。

また、ラルゴというスタイルを独立した楽章に用いるのもこれが最後になるだけに意味深い作品だと言えます。

それ以外にも、例えば第5番のソナタの第1楽章の構築感は紛れもない’ベートーベンそのもの’を感じ取ることができますし、緩徐楽章が省かれた第6番のソナタのユニークさも際だっています。
初期のピアノソナタの傑作とも言うべき第8番「悲愴」の前に位置する作品で、見過ごされることの多い作品ですが、腰をすえてじっくりと聞いてみるとなかなかに魅力的な姿をしています。

ピアノソナタ第7番 ニ長調 作品10の3


  1. 第1楽章:Presto
    冒頭部分で提示される第1主題はフェルマータで終結して、それに続く部分とはっきり区別されます。さあ、これが第1主題で、この中の音型を使ってこのソナタ楽章は構成されますよ!と言う宣言みたいな始まりです。そして、実際にこの第1主題の力強さを内包した4音が果てしなく反復されていきます。その数、(数えた人によると・・・)およそ50回だそうです。
    ある人に言わせれば、全く音楽のことが分からない人に対して、ベートーベン自身が自らの作曲の仕方をレクチャーしたような音楽です。
    なお、この楽章には作曲当時のベートーベンが使用していたピアノでは出ない高音と低音が一つずつ含まれているそうです。高音は(ベートーベンのピアノ)F→(楽譜)F♯、低音は(ベートーベンのピアノ)F→(楽譜)Eとなっているそうです。
    原典原理主義のピリオド演奏を推進した人の中には、この2音を演奏することは当時の演奏の風習に反するとしてこの2音を弾かないそうです。
    エイプリルフールのギャグ話かと思ったのですが、実行している人たちは大まじめだそうです。イデオロギーを大まじめに追求すると、どんなお笑い芸人をも打ち負かすギャグになるのは音楽の世界でも変わりがないようです。

  2. 第2楽章:Largo e mesto
    ベートーベンはピアノソナタの緩徐楽章で「Largo」を使ったのはこれが最初にして最後です。アルベートーベン研究家は、ベートーベンはこの音楽でLargoの良い部分を搾り取った」と表現したそうです。
    メニューヒンはピアノを「文学的な楽器」だと表現していました。確かに、この音楽を聴くと、ピアノは悲しみのストーリーを物語っています。そして、物語は中間部の特徴な旋律によってむせびなきへと変わり、言葉は詩へと昇華します。
    おそらく、若き時代という但し書き抜きで「最も優れた音楽の一つ」と言い切れるでしょう。

  3. 第3楽章:Menuetto e Trio-Allegro
    悲しみの表情は、ここで一転して優しい叙情へと様変わりします。こういう感情の激しい転換はベートーベンの特長としてこの後も引き継がれていく特徴です。

  4. 第4楽章:Rondo-Allegro
    作品10の3曲の中では、このニ長調ソナタだけが4楽章構成になっています。当時の常識としてはこれが基本形であり、ハ短調ソナタはメヌエット楽章を欠き、ヘ長調ソナタでは緩徐楽章を欠いていると感じられたようです。その意味では、4つの楽章が揃ったこのソナタが最も正統派で演奏効果も高い音楽と受け取られたようです。
    こういう4楽章構成では、前の3楽章を引き受けてまとめをつける終楽章にはロンド形式が用いられるのが一般的でした。ですから、このニ長調のソナタでもそのお約束通りにロンド形式が採用されています。しかし、そのロンド形式はこれに先だとソナタのロンド形式と較べるとはるかに複雑な構造を持っています。
    ロンド形式とは言うまでもなく主たる旋律が異なる旋律を挟みながら何度も繰り返される形式です。最もシンプルで古典的なのは「A(メインの旋律) - B - A - C - A - D - A ...」みたいな感じですね。
    しかし、この楽章ではロンド主題は帰ってくるたびに変奏される事で実に複雑な音楽になっています。また、曲の最後も音楽が少しずつ蒸発して消えていくような雰囲気を持っているので、演奏する側にとってはなかなかに難しい音楽だと言えます。



アラウという人はドイツの「型」を色濃く「伝承」しているピアニストと言えそうです


日本の伝統芸能の世界には「芸養子」なる制度があります。能や歌舞伎の役者に子供がいない場合には、能力がある弟子を実際の子供(養子)として認めて育てていくシステムのことです。
芸事というのは、大人になってから学びはじめては遅い世界なので、芸事の家に生まれた子供は物心が付く前から徹底的に仕込まれることでその芸の世界を次に繋いでいきます。ですから、伝えるべき子供がいないときには、「芸養子」を迎えてその芸を継がせるのです。

アラウという人の出自を見てみると、彼もまた「芸養子」みたいな存在だと思わせられました。
彼は幼くしてリストの弟子であったクラウゼの家に住み込み、そのクラウゼからドイツ的な伝統の全てを注ぎ込まれて養成されたピアニストです。ですから、出身はアルゼンチンですが、ピアニストとしての系譜は誰よりも純粋に培養されたドイツ的なピアニストでした。

まるでドイツという国の「芸養子」みたいな存在です。
彼の中には、良くも悪くも、「伝統的なドイツ」が誰よりも色濃く住み着いています。

言うまでもないことですが、楽譜に忠実な即物主義的な演奏はドイツの伝統ではありません。ですから、アラウの立ち位置はそんなところにはありません。
おそらく、伝統的なドイツから離れて、そう言う新しい波に即応していったのはどちらかと言えばバックハウスの方でした。

こんな事を書けば、バックハウスやケンプこそがドイツ的な伝統を受け継いだ正統派だと見なされてきたので、お前気は確かか?と言われそうです。
しかし、60年代の初頭に一気に録音されたアラウのベートーベン、ピアノソナタ全集をじっくり聞いてみて、なるほど伝統的なドイツが息づいているのはバックハウスではなくてアラウなんだと言うことに気づかされるのです。

言うまでもないことですが、芸事の伝統というのは学校の勉強のようなスタイルで伝わるものではありません。そうではなくて、そう言う伝統というのは劇場における継承として役者から役者へ、もしくは演奏家から演奏家へと引き継がれるものです。
そして、その継承される内容は理屈ではなくて一つの「型」として継承されていきます。そして、その継承される「型」には「Why」もなければ「Because」もないのが一般的です。

特に、その芸事の世界が「伝承芸能」ならば、「Why」という問いかけ自体が「悪」です。何故ならば、「伝承芸能」の世界において重要なことは「型」を「伝承」していくことであって、その「型」に自分なりのオリジナリティを加味するなどと言うことは「悪」でしかないからです。
それに対して、「伝統芸能」であるならば、取りあえずは「Why」という問いかけは封印した上で「型」を習得し、その習得した上で自分のオリジナリティを追求していくことが求められます。

「伝統芸能」と「伝承芸能」はよく同一視されるのですが、本質的には全く異なる世界です。
そして、西洋のクラシック音楽は言うまでもなく「伝統芸能」の世界ですから、「型」は大事ですが「型」からでることが最終的には求められます。

しかし、「伝承」の色合いが濃い演奏家というのもいます。
そう言う色分けで言えば、アラウという人はドイツの「型」を色濃く「伝承」しているピアニスト言えそうなのです。

この事に気づいたのは、チャールズ・ローゼンの「ベートーベンを読む」を見たことがきっかけでした。
このローゼン先生の本はピアノを実際に演奏しないものにとってはかなり難しいのですが、丹念に楽譜を追いながらあれこれの録音を聞いてみるといろいろな気づきがあって、なかなかに刺激的な一冊です。
そして、ローゼン先生はその著の中で、何カ所も「~という誘惑を演奏者にもたらす」という表現を使っています。

そして、そう言う誘惑にかられる部分でアラウはほとんど躊躇うことなく誘惑にかられています。

例えば、短い終止が要求されている場面では音を伸ばしたい要求にとらわれます。そうした方が、明らかに聞き手にとっては「終わった」と言うことが分かりやすいので親切ですし、演奏効果も上がるからです。
アラウもまた、そういう場面では、基本的に音を長めに伸ばして演奏を終えています。
例えば、緩徐楽章では、その悲劇性をはっきりさせるために必要以上に遅めのテンポを取る誘惑にかられるともローゼン先生は書いています。その方が悲劇性が高まり演奏効果が上がるからです。
アラウもまた、そう言う場面ではたっぷりとしたテンポでこの上もなく悲劇的な音楽に仕立てています。

そして、そうやってあれこれ聞いていてみて、そう言う誘惑にかられる場面でバックハウスは常に禁欲的なので驚かされました。
そして、なるほど、これが戦後のクラシック音楽を席巻した即物主義というものか、と再認識した次第です。

逆に言えば、そう言う演奏効果が上がる部分では、「楽譜はこうなっていても実際にはこういう風に演奏するモンなんだよ」というのが劇場で継承されてきた「型」、つまりは「伝統」なのだとこれまた再認識した次第なのです。

そして、バックハウスは「型」を捨ててスコアだけを便りにベートーベンを構築したのだとすれば、アラウは明らかに伝統に対して忠実な人だったと言わざるを得ないようなのです。

そして、クラシック音楽の演奏という行為は「伝承芸能」ではないのですから、そう言う「型」を守ることはマーラーが言ったような「怠惰の別名」になる危険性と背中合わせになります。
このアラウの全集録音が、そう言う危険性と背中合わせになりながらもギリギリのところで身をかわしているのか、それともかわしきれていないのかは聞き手にゆだねるしかありません。