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リスト:交響詩第6番 「マゼッパ」 S100

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 1961年2月16日~17日録音

  1. リスト:交響詩第6番 「マゼッパ」 S100



荒野を駆け抜けていく荒馬に自らの姿を重ね合わせていたのかもしれません

この作品をカラヤンは61年に録音しているのですが、その時に不思議だったのがそのレコードのジャケットが「馬」だったことです。
そのレコードはこの交響詩「マゼッパ」だけでなくて、「ハンガリー狂詩曲」とか「ハンガリー幻想曲」なんていう管弦楽曲もカップリングされていたのですが、どうしてリストの音楽に疾走する「馬」のジャケットなんだと不思議に感じたモノでした。

ただし、分かってしまえば簡単な話で、このマゼッパというのは下敷きがユゴーの「東方詩集」におさめられた長編叙事詩「マゼッパ」であり、その叙事詩の前半部分に描かれている疾走する荒馬の姿を音楽に置き換えたのがリストの「マゼッパ」だったのです。
マゼッパは実在の人物だったようで、そのエピソードが伝説となって語り継がれていく間に多くの詩人にインスピレーションを与えたようで、ユゴーの前にはバイロンもこの人物取り上げています。

マゼッパは元々はポーランド国王のヨハン・カジミール宮廷に使えていた武人だったのですが、貴族夫人との不義密通の罪によって裸で馬に括り付けられて荒野に追放されるという刑をうけます。
しかし半死の状態で農民に救われ、やがてウクライナのコサック兵の一員となり、さらには数々の武勲をあげてついにはウクライナの英雄となるのです。
リストが強烈なインスピレーションを受けたのは、この前半部分の「裸で馬に括り付けられて荒野に追放される」イメージだったようです。

雷鳴が轟く暗黒の雲が渦巻く中を音高く、風巻き起こし駈けてゆく荒馬、その荒馬に括りつけられたマゼッパを襲う様々な怪物達、マゼッパの血は果てしもなく流れいでて肉もちぎれて落つる。

まさにこのようなイメージがリストに強烈な印象を与えて、そのイメージを音楽に置き換えようとしたのがこの交響詩だったのです。
ですから、その様な交響詩を収録したレコードのジャケットに疾走する馬を選んだのは何の不思議もないと言うよりは、「そのまんま」とも言うべきデザインだったわけです。

なお、この交響詩の原曲は「12の課題による練習曲集」の第4曲です。
ただし、あのピアノ曲にはユゴーの「マゼッパ」は影響を与えていません。このあたりの成立過程はいささか複雑になるのですが、簡単に確認しておきます。


  1. S136/4:12の課題による練習曲集第4番(1826:ピアノ独奏曲)

  2. S137/4:24の大練習曲集第4番(1837:ピアノ独奏曲)

  3. S138:マゼッパ(1840:ピアノ独奏曲)

  4. S139/4:超絶技巧練習曲集第4番(1851:ピアノ独奏曲)

  5. S100/1:交響詩“マゼッパ"(1851:管弦楽)



これ以降もリストは改作を続けるのですが、成立過程を確認する上では煩雑になりますから省いておきます。
おそらく、リストがユゴーのマゼッパを読んだのは1837年の「24の大練習曲集」の前だと想像されていますが、そのイメージが音楽の中に定着するのはS138のピアノ独奏曲「マゼッパ」においてです。
そして、これをさらに作り込んだのが1851年の「超絶技巧練習曲集第4番」でした。

しかし、リストはそれだけでは満足できなかったのでしょう。

自らのイメージの中にある荒馬を表現するためにはより多彩な表現が必要であり、そのイメージを思う存分に押し広げて作られたのが交響詩「マゼッパ」だったのです。
ですから、それは一見するとピアノ曲を管弦楽作品に編曲したように見えるのですが、その荒馬は明らかにピアノ曲の枠を飛び出してこの交響詩の中を疾走しています。
ですから、この作品はピアノ独奏曲とは強いつながりは持っているものの、完全に独立した別個の作品と見るのが正しいのです。

そして、リストは交響詩だけでなくピアノ作品の方もさらに何度も手を加えていますから、この荒野を駆け抜けていく荒馬のイメージはよほど彼に強い印象を与えたのでしょう。
いや、その荒馬に自らの姿を重ね合わせていたのかもしれません。

まさに、リストこそは荒野を疾走する荒馬だったのです。


弦楽器の響き、突き抜けていくような金管の咆哮、彩りをそえる木管楽器の響き、どれをとっても完璧です。


この録音だけがなぜかアップし忘れていました。
さて、どうしてそんな事になったのかとしばし考えて理由がすぐに分かりました。おそらく、交響詩「マゼッパ」の解説を書こうと思っているうちに、それが意外と大変だったので(^^;、先延ばしにしている間に忘れてしまったようなのです。

演奏に対する評価の方は「井の中の蛙大海を知らず、されど天の青さを知る」という開き直りによって自分の思いを綴れば、後は悪くても恥をかくだけですむのですが(^^;、作品の解説と紹介に関しては「客観性」とある程度の「正確」さが必要ですからどうしても「調べる」という作業が伴います。
最近もベートーベンの交響曲やピアノソナタの作品紹介を少しずつ書き直しているのですが、無味乾燥にならないように「客観性」と「正確」さを担保するのは意外と大変です。

そう言えば、フィギュアスケートの解説で、選手の演技にあわせて「ダブル・アクセル!」とか「トリプル・ルッツ!」などと技の名前だけを叫んでいる解説者がいますが、本当に阿呆みたいな話です。
それと同じように、クラシック音楽の作品解説でも、楽譜を見れば分かるような事を、例えば「主題はスタッカートと休符を多く使った楽想」とか「4小節のなだらかな楽想を挟んでもう一度あらわれる」みたいな事ばかり書いて、それが「作品の解説」だと信じているような方々も少なくありません。

どちらにしても、音楽を言葉で表現し、紹介するのは大変なのです。

ですから、そんな解説などを抜きにしてシンプルに「音楽を聞いてください」でいいという人もいるのですが、それはある程度音楽を聞き込んでいる人にとっては全くその通りなのですが、そうでない人にとってはやはりインヴィテーションとしての言葉は不可欠なのです。

さて、このカラヤン&ベルリンフィルによる交響詩「マゼッパ」なのですが、まさにこのコンビの底力を思い知らされる録音です。
そして、この底力を持って、この翌年からいよいよベートーベンの交響曲全集の録音に取りかかるのです。そう言う意味で言えば、これは自らが築き上げてきた「力(パワー)」の確認作業だったのかもしれません。

分厚くて中味のギッチリとつまった弦楽器の響き、突き抜けていくような金管の咆哮、そしてそれに彩りをそえる木管楽器の響き、どれをとっても完璧です。
当然のことながら、カラヤンらしい的確なリズム処理によって申し分のない疾走感も表現されています。
疑いもなく、たぎるような思いをもって荒馬は疾走しています。

そして、ここぞという場面では歌舞伎役者の如く大見得を切ってみせます。
見事なものです。

そして、いつも不思議に思うのです。
どうして、これで良しとして、この方向性をより深めていく方向にカラヤンは腰を据えなかったのでしょう。
もちろん、そんな事は60年代中期以降のカラヤン美学を良しとする多くの人にとってはただの寝言にしかすぎないのですが・・・。(^^;