クラシック音楽へのおさそい~Blue Sky Label~



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イヴァノヴィッチ:ドナウ河のさざ波

ユージン・オーマンディ指揮 フィラデルフィア管弦楽団 1967年4月20日録音

  1. Ivanovici:Donauwellen



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月は霞む 春の夜 岸辺の桜 風に舞い 散りくる花の ひらひらと 流るる川の 水の面

「ヨシフ・イヴァノヴィチ」と言われてもピントくる人は少ないでしょうが、「ドナウ川のさざ波」と言われれば思い出される方も多いでしょう。
「ドナウ川」絡みの音楽と言えばヨハン・シュトラウスの「美しき青きドナウ」があるのでいささか分が悪いのですが、この哀愁に満ちたメロディは日本人好みなのか、この国ではけっこういい勝負をしています。

明治時代にこの作品が伝わってきたときには、すぐに歌詞がつけられて多くの人に歌われたようです。

月は霞む 春の夜
岸辺の桜 風に舞い
散りくる花の ひらひらと
流るる川の 水の面(おも)

棹さすささ舟 砕くる月影
吹く笛さそう 花の波

調べゆかし 笛の音(ね)に
横雲垂れて 水ゆるぐ
流れのままに ささ舟の
そのゆく末や 春おぼろ
棹さすささ舟 砕くる月影
吹く笛さそう 花の波


ドナウの岸辺に桜の花が咲いているわけはないのですが、この音楽のメロディがまさに桜散る春の夕暮れを連想させたのでしょう。
そう言えば、こういう哀愁に満ちたメロディというのはルーマニアという国の特徴だったのかもしれません。

すぐに思い出すのが、天満敦子によって紹介されたポルムベスクの「望郷のバラード」です。あの音楽も濃厚な哀切感に満ちた音楽だったのですが、ルーマニア国内ではそれなりに有名な作品だったそうです。

それから、お隣の国になりますが、ドップラーの「ハンガリー田園幻想曲」なんかも日本では人気があります。
こうして並べてみると、こういう東欧圏の音楽には日本の「追分節」を思わせるような雰囲気があるようで、それが日本人の心情にピッタリと来るのでしょうか。

なお、ヨシフ・イヴァノヴィチはの軍楽隊の隊長だったそうなのですが、数多くの音楽も作曲した人物だったようです。
その作品の殆どは忘れ去られているのですが、この「ドナウ川のさざ波」だけは今も多くの国で聴き継がれているようです。


レガートをかけまくったカラヤンの演奏よりはよほど正統派の演奏です

なんだか、最近はこういう中途半端な音楽ばかりアップするなとご不満の方もおられるかもしれないのですが、まあ、騙されたとでも思って耳を傾けてください。

SP盤の時代には小品は大きな位置を占めていたことはすでにふれたのですが、録音媒体がLPからCDへと変わっていく中で、その扱いは脇役から埋め草へと転落していきました。

余談になりますが、CDがこの世に登場したとき、A面からB面に裏返す必要がないという「事実」になれるにはいささかの時間を必要としました。たとえば、ミンシュ&パリ管の幻想交響曲は第3楽章の途中でB面に裏返す必要があったのですが、CDに変わってからもその場面が近づいてくるとなんだか落ち着かない気分になったものです。
おそらく、SPからLPに切り替わったときは、それ以上の「戸惑い」があったのではないかと想像されます。

しかし、そんな中にあって、LP時代にも積極的に小品のアルバムを作り続けた双璧がカラヤンとオーマンディでした。
この両者はアナログ時代の最後となる80年代後半に於いても、いわゆる小品を詰め込んだアルバムが10枚以上もカタログに生き残っていました。ちなみに、1987年の国内盤のカタログを数えた人がいるようで、5曲以上の小品が収録されたアルバムはカラヤンでは15枚、オーマンディでは13枚が生き残っていたようです。

CDの時代に入っても、カラヤンが過去に録音した小品を組み合わせた「アダージョ・カラヤン」なるアルバムが500万枚以上の売れたのですから恐れ入ります。
オーマンディの方は、吉田秀和氏によって「文化のKeeper」と断じられたことが原因かどうかは分かりませんが、死後の地盤沈下によってそう言うアルバムが作られることはありませんでした。しかし、「オーケストラの休日」と題したアルバムは、収録されている作品の顔ぶれを少しずつかえながら何度かリリースはされています。

そして、そう言うアルバムを聴いてみると、演奏能力の高さに裏付けられたゴージャスな響きはカラヤンが率いたベルリンフィルに劣るものではないことはすぐに納得するはずです。
それでも、そんな演奏は「精神性のない」「気楽で脳天気」な音楽をやった人という「定説」を補強するために利用されてしまった雰囲気もあるのです。
そう言えば、あの「アダージョ・カラヤン」にしても「心あるクラシック音楽ファン」からは随分と貶されていましたから、そのあたりは似たようなものだったのかもしれません。

しかし、そういう「ココロあるクラシック音楽ファン」の「ココロ」を取りあえずはどこかに置いてきて、虚心坦懐にこのような演奏に耳を傾けてみれば、レガートをかけまくったカラヤンの演奏よりはよほど正統派の演奏だった事に気づくはずです。
そして、こういう悠然たるテンポで聞くもののハーとをつかんでしまう歌い回しは見事としか言いようがないのです。
そして、こういう歌い回しによって小品を演奏する能力こそが、今の指揮者に決定的に欠けているように思われるのです。

そんなわけで、まあ、騙されたとでも思って耳を傾けてください。(^^v