クラシック音楽へのおさそい~Blue Sky Label~



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チャイコフスキー:幻想序曲「ハムレット」, Op.67a


ロヴロ・フォン・マタチッチ指揮 フィルハーモニア管弦楽団 1956年1月録音をダウンロード

  1. Tchaikovsky:Hamlet-Fantasy Overture, Op.67a

音楽によって一編の戯曲を堪能できる



この作品はチャイコフスキーの初期を代表する管弦楽曲と言ってもいいでしょう。と言うか、彼の初期作品の中で、今も演奏会で頻繁に取り上げられるのはこの作品だけかもしれません。
おそらく、その理由は「分かりやすさ」でしょう。
「ロミオとジュリエット」は誰もが知っている悲劇の物語です。その、誰もが知っている物語をものの見事に音楽で表現しきったのがこの作品です。

冒頭の教会音楽を思わせるようなメロディは修道僧ロレンスを表現しています。しかし、その静かな音楽はシンバルの強打とシンコペーションを活用した音楽によって、場面は一転して皇帝派のモンタギュー家と教皇派のキャピュレット家との血で血を洗う抗争が表現されます。音楽がもつれ合い、そのもつれが次々と積み重なっていくことによって両家の深刻な対立が見事に描き出されていきます。
このあたりの手際は実に見事です。

そして、このもつれ合いが一段落すると、それに変わってロミオとジュリエットの愛の調べが流れてきます。

この二つが作品の基本でして、やがて展開部にはいるとこの二つの主題が交差していきます。そして、ヴァイオリンが壮麗に愛の調べを奏するのですが、それも一瞬にして葛藤のテーマが断ち切ってしまいそのまま終結部へとむかってなだれ込んでいくような風情となります。
しかし、その葛藤もティンパニーの一撃で沈黙させられ、人々は取り返しのつかない悲劇が起こったことを知らされます。

音楽は今までの葛藤の騒がしさから一転して静けさの中に沈み込み、ロミオとジュリエットの愛のテーマが切れ切れに聞こえてきます。そして、やがてその愛のテーマは木管群によって美しく奏され、ハープのアルペッジョによって二人の魂は天上へと登っていくことを暗示して静かに曲は閉じられます。

要は、葛藤のテーマと愛のテーマさえつかんでしまえば、そして「ロミオとジュリエット」のあらすじを知っていれば、まさに音楽によって一編の戯曲を堪能できるのです。
実にもって、これぞ「標題音楽」とも言うべき分かりやすい作品です。

「懐古」ではなく「尚古」、尊ぶべき「古さ」とは何なのかを考えてみるべきかもしれない

マタチッチは50年代を中心にEMIなどでそれなりの録音は行っています。
しかしながら、それらの録音はほとんど顧みられることはなく、アナログからデジタルへの移行期においてもCD化されることはなかったようです。
そして、それらの録音が少しずつ陽の目を見るようになったのは、それらがパブリック・ドメインになったおかげでした。
常々言っていることですが、著作権を保護することは重要なのですが、その保護期間をいたずらに延長することは音楽文化にとって必ずしもプラスにならないときもあると言うことです。今回の「TPP11」発効に伴う保護期間の延長もその様な弊害をもたらすことにならないように願うばかりです。

さて、今回マタチッチの50年代の録音を聴いてみて、「なるほどね」と思うことが幾つかありました。
その第一は、日本では「偉大なブルックナー指揮者」と思われているのに、50年代のマタチッチが引き受けていた役割は「ロシア音楽」の指揮者だったと言うことです。
これはどう考えても扱いが低いです。
どのレーベルにしてもカタログの本線はベートーベンなどの独襖系の音楽であって、それ故に、そう言う作品にこそ人気と実力のある指揮者を投入します。EMIであれば、それはカラヤンであり、クレンペラーだったわけです。
それにたいして、チャイコフスキーやリムスキー=コルサオフ、グラズノフやバラキレフなどの作品をあてがわれるマタチッチという指揮者の比重はそれほど大きくはないのです。

そして、そう言うライン上でも次第にお呼びがかからなくなった背景には彼の曖昧な指揮があったのではないかというのが第二の「なるほどね」なのです。
50年代後半のフィルハーモニア管と言えば、この時代のオーケストラとしては疑いもなくトップクラスの機能を誇っていました。にもかかわらず、ここから聞こえる「ロシア音楽」は陰影豊かで濃厚な味わいを持ってはいるものの、全体的な雰囲気は何処かモッサリとした印象が拭いきれないのです。
逆に言えば、フィルハーモニア管ほどの高い機能を持ったオーケストラからこれほど田舎びた風情を引き出すというのは凄いのです。そして、そうなってしまう背景にはマタチッチの指揮の曖昧さがあるように思われるのです。
しかし時代はそう言う音楽を求めてはいませんでした。フィルハーモニア管にしてもEMIにしても、それは満足のいくものではなかったはずです。

やがて、時代はマタチッチを置き去りにしていき、何処のオーケストラからもお呼びがかからなくなっていきます。
真偽のほどはさだかではありませんが、全く指揮をする場が与えられないために、「ただでもいいから振らせてくれ」と頭を下げて頼みまわっていたという話も伝えられています。そして、これもまた真偽のほどは定かではありませんが、N響の事務局はそんなマタチッチの「ただでもいいから振らせてくれ」という願い(?)にこたえて、伝説となった84年の来日時には犯罪的とも言えるほどの低いギャラで招いたという噂も流布しています。

しかし、中島みゆきではないですが時代はめぐります。

私たちは、絢爛豪華な響きをこの上もない精緻さで描き出した演奏と録音をすでに数多く持つようになりました。そして、そう言う精緻な演奏を聞き続けている時に、ふとこのような田舎びた音楽に出会うと、そこに不思議なほどの好ましさを覚えてしまうのです。
おそらく、こういう田舎びた音楽ばかりを聞いていたときに、ショルティやマゼールのような棒で精緻きわまる音楽を聞かされたときには「好ましさ」どころではない大きな「驚きと喜び」を感じたはずです。

時代の大きな流れのなかで、その流れとは異質なものと出会うことは、それを受容するにしろ拒否するにしろ、人の心を大きく動かします。
ただし、その異質なものはその両者においてはベクトルが真逆です。
ショルティやマゼールのベクトルが「前向き」であるのに対して、マタチッチのベクトルは明らかに「後ろ向き」です。そして、「後ろ向きのベクトル」は「後ろ向き」であるがゆえに何か新しい潮流を生み出すことはありません。
ですから、それは年寄りの「懐古趣味」で終わるだけなのかも知れません。

しかし、この世の中には「懐古」という言葉以外に「尚古」という言葉もあります。「懐古」と「尚古」は似ていながら全く違う概念です。
今という時代にあって、こういう演奏を懐かしむだけでなく、尊ぶべきものが何なのかを考えてみることは意味なきことではないのかも知れません。

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