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マーラー:交響曲第1番 ニ長調「巨人」
カレル・アンチェル指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団 1964年12月録音をダウンロード
- Gustav Mahler:Symphony No.1 [1.Langsam. schleppend]
- Gustav Mahler:Symphony No.1 [2.Kraftig, bewegt, doch nicht zu schnell]
- Gustav Mahler:Symphony No.1 [3.Feierlich und gemessen, ohne zu schleppen]
- Gustav Mahler:Symphony No.1 [4.Sturmisch bewegt]
マーラーの青春の歌
偉大な作家というものはその処女作においてすべての要素が盛り込まれていると言います。作曲家に当てはめた場合、マーラーほどこの言葉がぴったり来る人はいないでしょう。
この第1番の交響曲には、いわゆるマーラー的な「要素」がすべて盛り込まれているといえます。ベートーベン以降の交響曲の系譜にこの作品を並べてみると、誰の作品とも似通っていません。
一時、ブルックナーとマーラーを並べて論じる傾向もありましたが、最近はそんな無謀なことをする人もいません。似通っているのは演奏時間の長さと編成の大きさぐらいで、後はすべて違っているというか、正反対と思えるほどに違っています。
基本的に淡彩の世界であるブルックナーに対してマーラーはどこまで行っても極彩色です。
基本的なベクトルがシンプルさに向かっているブルックナーに対して、マーラーは複雑系そのものです。
そう言えば、この作品も完成までには複雑な経路を辿っています。もっとも、作品の完成に至る経路というのはブルックナーもひどく複雑なのですが、その複雑さの性質が二人の間では根本的に異なっています。
この作品のいわゆる「初稿」と思われるものは、1889年にブダペストでの初演で用いられたものでした。その「初稿」は「花の章」と名づけられたアンダンテ楽章を含む5楽章構成であり、全体が二部からなる「交響詩」とされていました。
しかしながら、マーラーは実際の演奏を通して不都合を感じる部分があるとこまめに改訂を行い、そのために最終的に筆を置いた時点で「決定稿」となる人でした。
その辺りが、ブルックナーとは根本的に作品に向き合うスタンスが異なるのです。
つまりは、うじうじと書き直すことで必ずしも「良くなる」とは限らないブルックナーでは「初稿」そ含むそれぞれの「改訂稿」にも意味を与えなければいけません。しかし、マーラーの場合の「初稿」や「改訂稿」というものは、その後必要となった訂正が行われていない「未完成版」と言う意味しかもたないのです。
ですから、ブルックナーの新全集版では改訂されたすべての稿を独立して出版する必要に迫られるのですが、マーラーの場合はシンプルに最後の決定稿だけが出版されて事たれりとなっているのです。
しかしながら、この第1番だけはいささか複雑な経路を辿って決定稿に至っています。
マーラーはブダペストでの初演ではかなり不満を感じたようで、1894年のワイマールでの再演に際して大幅な手直しを行っています。その手直しは主に2,3,5楽章に集中していたようで、とりわけオーケストレーションにはかなり大幅な手直しがされたと伝えられています。
しかしながら、ブダペストでの初演で使われた初稿は現在では失われてしまっているので、その相違を細かく比較することは出来なくなっているようです。
そして、この時点で、マーラーはこの作品を「花の章」を含む5楽章構成の交響曲として「ティターン(巨人)」というタイトルを与えたのです。
ところが、何があったのかは不明ですが、1896年にベルリンで演奏したときには「花の章」を省く4楽章構成で演奏し、1899年にこの作品を出版するときにもその形が採用されました。また、「ティターン(巨人)」というタイトルや楽章ごとにつけられた「標題」などは削除されたようです。
また、終楽章にも小さな訂正が加えられました。
その後、1906年に別の出版社から出版されるときに第1楽章のリピートなどが追加され、さらに1967年の全集版では、その後マーラーが実演において指示した訂正や書き込み等を収録して、それが今日では「決定稿」と言うことになっています。
いささか煩雑なので、整理しておくと以下のように経緯となります。
- 1889年:ブダペストでの初演で使われた初稿:「花の章」を含む5楽章からなる2部構成の交響詩
- 1894年:ワイマールの再演で使われた第2稿:「初稿」に大幅な改訂を施した、「花の章」を含む5楽章構成の交響曲
- 1889年:ヴァインバーガー社から刊行された初版で第3稿にあたる。1896年のベルリンでの演奏家では「花の章」を省いた4楽章構成の交響曲として演奏されたスタイルをもとにしている。改訂時期は不明とされている。また、「ティターン(巨人)」というタイトルや楽章ごとにつけられた「標題」も削除された
- 1906年:ユニバーサル社から刊行された決定稿:第1楽章のリピートなどが追加されている。
- 1967年:全集版として刊行された決定稿の再修正版:マーラーが実演で採用した最終的な書き込みを反映させた。
そうなると、一番の問題は何故に途中で「花の章」を省いたのかという事が疑問として浮かび上がってきます。
もっとも、こういう事はあれこれ論を立てることは出来ても、最終的にはマーラー自身が何も語っていない以上は想像の域を出るものではありません。
ただ、明らかなことは、マーラーはその章を削除して「決定稿」としたという事実だけです。
そうであれば、この「花の章」を含んだ第2稿を持って、それこそがマーラーの真意だった、みたいな言い方をするのは根本的に間違っていると言うことです。
そして、先にも述べたように、その辺りこそがマーラーとブルックナーとの根本的な違いなのです。
マーラーの音楽の中にある不純物を沈めていって、残された結晶だけをすくい取ってきたような演奏
アンチェルとマーラーという組み合わせは今ひとつピンとこないのですが、調べてみるとアンチェルは結構マーラーを取り上げているようです。スプラフォン・レーベルで、第1番と第9番をスタジオ録音しているのですから、時代を考えればかなり熱心な部類にはいるほどです、そして、それもまた、彼がユダヤ系の音楽家であり、ナチスの強制収容所において生まれたばかりの幼子も含めて家族全員が虐殺され、アンチェル自身はその音楽的才能によって「利用価値」があるとされて生き延びることが出来たという経歴を知れば、当然のことだったと思い至るのです。
ただし、彼の音楽からは、その様な過酷な人生を思わせるようなものはほとんど浮かび上がってきません。
それは、同じユダヤ系であるバーンスタインの思い入れたっぷりの没入型のマーラーとは真逆の位置にある音楽です。それを良い方に表現すれば、虚飾を排し、一切の過剰な表現を抑制した音楽であると言えます。もっと有り体に言えば、簡素で素朴です。
つまりは、音楽の中にマーラーと己の間の共通点を探り出して、そこに深い共感を表したり没入したりするようなことは意図的に避けていると思えるほどに禁欲的なのです。
しかし、そこに一つの問題が浮かび上がります。
一切の虚飾を排して、素朴にそして簡潔に表現されたマーラーというのが、果たして「誉め言葉」になるのかという問題です。そして、その事はセルやライナーが指揮したマーラー演奏においても同様の問題がつきまといました。
ある人に言わせれば、マーラーというのはだぶついた脂肪も含めて愛でなければその魅力は分からないと言います。ですから、ライナーのスパルタや、セルのエステシシャンとしての技によってダイエットしたマーラーは、本来あるべきマーラーの姿とは異なるというのです。
確かに、アンチェルはライナーのようなスパルタによって贅肉を削ぎ落としているわけでもないですし、セルのような手練れのエステシシャンでもありません。しかし、彼はマーラーの音楽の中にある不純物を沈めていって、残された結晶だけをすくい取ってきます。
その手段は異なっていても、彼らはデブのマーラーは許せなっかったのです。
しかし、バーンスタインやテンシュテットなどのマーラーは、それがたとえグロテスクであろうとも、そのグロテスクなまでに肥大化した姿をその肥大したままの姿で愛でて見せました。そして、それがマーラー演奏の本線となり、その流れに異を唱えるのはミヒャエル・ギーレンくらいしかいない状況が続く中で、いつの間にかアンチェルのようなマーラーは忘れ去られていきました。
しかし、ここでもまた時代はめぐるのです。
バーンスタインに代表されるような全身没入型のマーラーに倦んできたときに、ふとアンチェルの忘れ去られたような録音に出会ってみれば、こんなにも清々しいマーラーがあったのかと驚かされるのです。
率直に言って、録音のクオリティに関しては、この後の時代の優秀なマーラー録音と較べると一歩譲らざるを得ないのが残念ですが、そこまで望むのは贅沢というものかもしれません。それでも第3楽章の微妙な音の重なりなどは十分に魅力的でし、細かい音の分離などもいいのは、演奏その物がその様に明晰であったがゆえの結果でしょう。
そして、それまで抑制的に音楽を進めてきたアンチェルが、最後の最後に力を解き放つかのように歌い上げる場面は実に感動的です。この最後のところ、少しずつテンポを上げていって力を解き放つというのは、意外とやっている人は少ないのではないでしょうか。
さすがに、これを持ってマーラー「巨人」の最高の名演とまでは言い切る自信はありませんが、忘れてはいけない一枚であることは間違いありません。