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ベートーベン:ピアノ・ソナタ第13番 変ホ長調 Op.27-1
(P)ヴィルヘルム・ケンプ 1965年1月14日~15日録音をダウンロード
- Beethoven: Piano Sonata No.13 In E Flat, Op.27 No.1 [1. Andante - Allegro - Tempo I]
- Beethoven: Piano Sonata No.13 In E Flat, Op.27 No.1 [2. Allegro molto e vivace]
- Beethoven: Piano Sonata No.13 In E Flat, Op.27 No.1 [3. Adagio con espressione]
- Beethoven: Piano Sonata No.13 In E Flat, Op.27 No.1 [4. Allegro vivace - Tempo I - Presto]
感情の彷徨の果てに、終楽章において一つの結論に至るように全体を統一することにチャレンジした
全く同じ出自をもってこの世に生み出され、そしてその資質においてほとんど違いがないにもかかわらず、片方はこの上もない「名誉」と「称賛」に包まれながら、他方はその影でほとんど顧みられることがないというのは不思議といえば不思議な話です。
そして、その不思議な話の一つの典型が、ともに「幻想曲風ソナタ(Sonata quasi una Fantasia)」として、そして、ともに作品番号27という数字を与えられた、この2つのソナタでしょう。
作品番号27の2の方には後世の人が「月光ソナタ」というタイトルを与えて、おそらくは古今東西のピアノ作品の中ではもっとも有名な音楽の一つとなりました。
それに対して、作品番号27の1の方はその様な名誉に与ることなどは一度もなく、その片割れである「月光ソナタ」の隣でひっそりとうずくまっています。
音楽に「優劣」などという概念を持ち込むことはおかしな話なのですが、それでも敢えて用いるとすれば、この二つの作品の間にはその様な違いをもたらすほどの優劣の差があるはずもなく、さらに言えば、この二つの作品を均等に並べて聞き比べてみればそもそも「優劣」の差を見いだすことすら難しいのです。
ネット時代が始まる頃に、よく「集合知」と言うことがよくいわれました。
「専門家が知識を駆使するより、一般人の多数決のほうが正解に近づく」とか「専門家の助言より一般人のアンケート」などといわれたものですが、この事実はその限界をあらわしている一例なのかもしれません。
確かに、個人のバイアスが多数決によって是正されることもあるのですが、集団でバイアスがかっているときには、その集団にはそれを是正する力は存在しません。その事を、学校におけるイジメの構造や過労死をもたらすような異常な労働環境、さらには独裁者が君臨する国家の機構などを通して嫌と言うほど見せつけられてきたおかげで、最近はあまりそう言う言葉も聞かなくなったような気がします。
もっとも作品番号27の1と2の間の問題は、その様な深刻な問題ではないのですが(^^;、見かけの「有名」さに引きずられて自分の守備範囲が狭まることには注意が必要だと言うことでしょう。
ベートーベンがこの二つの「幻想曲風ソナタ」でチャレンジしたのは、それまでは音楽の重点が第1楽章におかれていたのに対して、全楽章を様式的に統一することによってその重点を最終楽章に移行することでした。
ベートーベンは既に古典的な均衡から抜け出して人間の率直な感情を表出する方向に舵を切り替えたことを「悲愴ソナタ」において表明していました。
そして、この二つのソナタにおいて、その様な感情の彷徨の果てに最終楽章において一つの結論に至るように全体を統一することにチャレンジしたのでした。
それによって生み出された2つのソナタを較べてみれば、作品番号27の2の方が強力なソナタ形式によってより明確にその到達点を明示し得たという点でのみ、ほんの少しの前進があったのかもしれません。
- 第1楽章:Andante
「Andante - Allegro - Andante」というシンプルな「ABA」の構造です。すべてのフレーズがppで始まることで幻想的な雰囲気を漂わせます。 - 第2楽章:Allegro molto e vivace
ベートーベンが楽章の終わりを示す終結複縦線を示していないのですが、テンポや調整、ダイナミクスの違いで明らかに異なる楽章であることが理解できます。
旋律的要素の少ない「いらだったような音楽」ですが、これは明らかにスケルツォ楽章だと判断できます。 - 第3楽章(第3楽章序奏):Adagio con espressione
深い感情に包まれた叙情詩のような音楽であり、この部分だけで3部形式の独立した楽章と見なすことも可能です。
ダイナミクスはfとpの間を揺れ動き、やがて瞑想から醒めたようなカデンツァによって次の音楽に引き継がれます。 - 第4楽章(第3楽章):Allegro vivace
この楽章こそがこの作品の到達点であり、それ故に、フーガの展開部を伴ったロンド形式という手の込んだ音楽になっています。
そして、この最終楽章に向かって全体を統一するというやり方を彼は最後まで試し続けることになるのです。
神から与えられた恩寵がケンプというエオリアンハープを通して鳴り響く演奏
演奏家の本質的な部分を考える上で「コンプリートする人」と「コンプリートにはこだわらない人」というのは一つの指標になるはずです。しかし、世の中は常に「例外」が存在するのであって、この二分法が全く意味をなさない演奏家というものも存在します。やはり、そう言うシンプルな「図式論」で割り切れるほど現実はシンプルではないと言うことなのでしょう。
一般的にいって「コンプリートする人」というのはその一連の演奏に一貫した「論理」みたいなものが通底しています。ですから、その論理に従って一つずつの作品と丁寧に向き合い、じっくりと時間をかけて「全集」を完成させるというのが通常のスタイルです。
例えば、ピアニストで言えばバックハウスなどはその典型だと思うのですが、彼は2回目のベートーベンの全集に10年以上の時間をかけながら結果として29番のソナタを残してこの世を去りました。
モノラル録音による1回目の全集にしても1950年から1955年までの長い時間を要しています。
つまりは、じっくりと時間をかけて一つずつの作品と向き合って丁寧に仕上げていくのがそう言うタイプの演奏家の特徴なのです。
ところが、このケンプというピアニストに関しては、そう言う「常識」が通用しないのです。
外面的に見れば、彼は疑いもなく「コンプリートする人」の部類に入ります。
何しろ、彼はモノラル録音で1回、ステレオ録音で1回の計2回もベートーベンのソナタをコンプリートしているからです。最晩年には、当時は取り上げる人もそれほど多くなかったシューベルトのソナタもほぼコンプリートしています。
さらに調べてみると、ケンプは戦時中の1940年代にもベートーベンの全曲録音に取り組んでいました。
結果としてこの全集は未完成に終わったのですが、もし完成していればシュナーベルに続くコンプリートになる予定でした。
そしてもう一つ、1961年の来日の時にNHKのラジオ放送のためにベートーベンのソナタを全曲録音しているのです。
つまりは、彼はその生涯においてベートーベンのソナタの全曲録音に4回も取り組み、その内の3回は完成させているのです。
- 1940年~1943年:SP録音(未完成)
- 1951年~1956年:モノラル録音
- 1961年:ラジオ放送のためのライブ録音
- 1964年~1965年:ステレオ録音
61年のライブ録音は10月10日,12日,14日,16日,26日,27日,30日の7日間で行われています。来日時の限られた日程の中での録音だったのでそれは仕方がないことだったのですが、それ以外のセッション録音の方はクレジットを見る限りはそれなりに時間をかけて取り組んだかのように見えます。
ですから、外見上は疑いもなく「コンプリートする人」のように見えるのです。
ところが、詳しい録音のクレジットが残っている50年代のモノラル録音と60年代のステレオ録音をさらに細かく調べてみると、一見するとそれなりに時間をかけて取り組んだように見えながら、その実態は61年のライブ録音とそれほど変わりのないことに気づくのです。
例えば50年代のモノラル録音をもう少し詳しく見てみると以下のような日程で行われています。
- 1951年9月20日:作品110/作品111
- 1951年9月21日:作品90/作品106
- 1951年9月22日:作品57/ 作品78/作品79
- 1951年9月24日:作品53/作品81a
- 1951年10月13日:作品7
- 1951年12月19日:作品2-2/作品2-3/作品10-1/作品10-2
- 1951年12月20日:作品14-2/作品26/作品27-1/作品10-3/作品14-1
- 1951年12月21日:作品28/作品31-1/作品31-2
- 1951年12月22日: 作品31-3
- 1951年9月25日&12月22日:作品49-1
- 1951年10月13日&12月22日:作品2-1
- 1951年9月25日: 作品49-2/作品54/作品101/作品109
- 1953年1月23日:作品13
- 1956年5月3&4日:作品27-2
- 1956年5月4&5日:作品22
つまりは1951年の9月と12月の10日ほどの間に集中して録音がされていて、落ち穂拾いのように53年と56年に3曲が録音されているのです。
録音の進め方としては61年のライブ録音の時とそれほど大差はありません。
そして、それと同じ事がステレオ録音の方に言えるのです。
煩わしくなるのでこれ以上細かいクレジットは紹介しませんが、ザックリと言って、64年の1月に29番以降の後期のソナタを4曲録音して、その後は9月の4日間で中期の9曲、11月の4日間で初期作品を中心に12曲、そして年が明けた1月の4日間で残された7曲を録音して全集を仕上げているのです。
つまりは、誤解を恐れずに言い切ってしまえば、ケンプという人は「コンプリートにこだわらない人」の感性を持って「コンプリート」しているように見えるのです。
「コンプリートにこだわらない人」の特徴は己の感性に正直だということです。
ですから、普通そう言うタイプの人は「好きになれない音楽」「共感しにくい音楽」をコンプリートするためだけに無理して録音などはしないのですが、なぜかケンプという人は己の感性に従って淡々と録音をしていくのです。
そして、時には1950年12月20日のように、この一日だけで5曲も録音を仕上げてしまったりするのです。
ちなみにその前日には4曲を仕上げていますから、この2日間だけで全体の3分の1近くを仕上げてしまったことになります。
そして、その淡々とベートーベンの音楽を鳴り響かせるケンプの姿に接していると、ブレンデルの「ケンプはエオリアンハープである」という言葉を思い出さざるを得ないのです。
おそらく、ケンプにとってベートーベンやシューベルトの音楽は、好きとか嫌いなどと言う感情レベルで判断するような音楽ではなかったのでしょう。
それはまさに神から与えられた恩寵であり、その恩寵がケンプというエオリアンハープを通して鳴り響くだけだったのかもしれません。
風が吹けば鳴り、風が吹かなければ鳴りやむ、ただそれだけのことだったのかもしれません。
例えば、8番のパセティックの冒頭、普通ならもっとガツーンと響かせるのが普通です。29番のハンマークラヴィーアにしても同様です。
ところが、ケンプはそう言う派手な振る舞いは一切しないで、ごく自然に音楽に入っていきます。そして、その後も何事もないように淡々と音楽は流れていきます。
あのハンマークラヴィーアの第3楽章にしても、もっと思い入れタップリに演奏しようと思えばできるはずですが、ケンプはそう言う聞き手の期待に肩すかしを食らわせるかのように淡々と音楽を紡いでいきます。
普通、こんな事をやっていると、面白くもおかしくもない演奏になるのが普通ですが、ところがケンプの場合は、そう言う淡々とした音楽の流れの中から何とも言えない感興がわき上がってくるから不思議です。
おそらく、その秘密は、微妙にテンポを揺らす事によって、派手さとは無縁ながら人肌の温かさに満ちた「歌」が紡がれていくことにあるようです。
パッと聞いただけでは淡々と流れているだけのように見えて、その実は裏側で徹底的に考え抜かれた「歌心」が潜んでいます。
ケンプのモノラル録音全集に対してこういう言葉を綴ったことがあるのですが、このステレオ録音に対しても全く同じ事が、いやそれ以上にその言葉はステレオ録音の方にこそ相応しいのかもしれません。
しかし、彼の録音をさらに聞き込んでいく中で気づかされたのは、彼の魂とも言うべ「微妙にテンポを揺らす事によって」紡ぎ出される「人肌の温かさに満ちた歌」は、「徹底的に考え抜かれた歌心」ではなくて、まさに彼に吹き寄せる風によって生み出され多た「歌」だったと言うことです。そして、そう言う風が鳴り響かせる「歌」に身を任していれば、音楽にとってテクニックというものはどこまで行っても「手段」にしかすぎないと言うことを再認識させられるのです。
しかしながら、その「歌」の幻想的なまでの心地よさは認めながらも、それでもベートーベンの音楽には演奏する側にとっても聞く側にとっても「傾注」が必要だという事実にも突き当たります。
そして、ケンプの演奏はその様な「論理に裏打ちされた傾注」によって構築されたベートーベンではないことは明らかなのです。ベートーベンという音楽を象るアウトラインが曖昧であり、率直に言ってぼやけていると言われても仕方がありません。つまりは「緩い」のです。
もちろん、そう言う「傾注」と「エオリアンハープ」が同居することなどはあり得ない事ははっきりしています。
そして、その事が明確であるがゆえに、まさにそこにこそケンプの演奏の魅力と限界があると言わざるを得ないのです。
そう考えれば、彼のエオリアンハープ的資質が存分に発揮されるのはベートーベンではなくてシューベルトなんだろうと思われます。
しかし、そこから先のことはシューベルトの録音を取り上げたときに、さらに突っ込んで考えてみたいと思います。