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フランク:交響曲 ニ短調


ウィレム・ヴァン・オッテルロー指揮 ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団 1964年1月7日~12日録音をダウンロード

  1. Franck:Symphony in D Minor [1.Lento]
  2. Franck:Symphony in D Minor [2.Allegretto]
  3. Franck:Symphony in D Minor [3.Allegro non troppo]

偉大なるマイナー曲



この屈指の名曲を「マイナー曲」と言えばお叱りを受けそうですが、意外ときいていない人が多いのではないでしょうか?まあCDの棚に一枚か二枚程度は並んでいるのでしょうが、それほどに真剣に聞いたことはないと言う人も多いのではないでしょうか?

名曲というハンコはしっかり押されているにもかかわらず何故か人気はないと言う点で、「偉大なマイナー曲」と表現させてもらいました。

理由はいくつか考えられるでしょうが、まず第一に、フランクが交響曲という分野ではこれ一曲しか残さなかったことがあげられるでしょう。
交響曲作家というのは一般的に多作です。ベートーベンの9曲を代表として、少ない方ではブラームスやシューマンの4曲、多い方ではショスタコーヴィッチの15曲というあたりです。マーラー、ブルックナー、ドヴォルザーク、チャイコフスキー、シベリウスなどなど、誰を取り上げてもそれなりにまとまった数の交響曲を残しました。
それだけにたった1曲しか残さなかったフランクの交響曲は、何かの間違いで(^^;、ポット産み落とされたような雰囲気が漂って「あまり重要でない」ような雰囲気が漂ってしまうのがマイナー性を脱却できない一つの理由となっているようです。

ただ、これは彼の人生を振り返ってみると大きな誤解であることは明らかです。吉田秀和氏がどこかで書いていましたが、60歳をこえ、残りの人生が少なくなりつつある10年間に、それこそねらいを定めたように、一つのジャンルに一作ずつ素晴らしい作品を産み落としたのがフランクという人でした。
そして、交響曲という分野においてねらいを定めてたった一つ産み落とされたのがこの交響曲なのです。

何かの片手間でポッと一つだけ作曲されたのではなく、自分の人生の総決算として、まさにねらいを定めたように交響曲という分野でたった一つだけ生み出され作品がこのニ短調のシンフォニーなのです。

さらにマイナー性を脱却できない第二の理由は作品が持つ「暗さ」です。とりわけこの作品の決定盤として君臨してきたフルトヴェングラーの演奏がこの暗さを際だたせた演奏だっただけに、フランクの交響曲は「暗い」というイメージが定着してしまいました。

たしかに、第一楽章の冒頭を聞くと実に「暗い」事は事実です。しかし、聞き進んでいく内に、この作品の本質がそのような暗さにあるのではなく、じつは「暗」から「明」への転換にあることに気づかされます。
そう、辛抱して最後まで聞いてくれればこの作品の素晴らしさを実感してもらえるのに、多くの人は最初の部分だけで辟易して、聞くのをやめてしまうのです。(実はこれってかつてのユング君でした・・・)

最終楽章の燦然と輝く音楽を聴いたとき、このニ短調の交響曲というのはあちこちで言われるような晦渋な作品ではなく、実に分かりやすい作品であることが分かります。そして、いかにドイツ的な仮面をかぶっていても、この作品は本質的にはフランスの音楽であることも了解できるはずです。

凝縮する人

オッテルローという指揮者は、聞けば聞くほど不思議な指揮者だと感じ入ってしまいます。
その不思議さは一言で言えば「凝縮」です。つまりは、どんな作品であってもそれをぐっと凝縮して提示してくるのです。

これは考えてみれば不思議なことなのです。
何故ならば、オーケストラというものは「派手さ」というものが「売り」の一つであることは間違いないからです。もちろん、作品によってはそう言う「派手さ」を最初から拒絶したようなものもあるのですが、それでも少なくない指揮者はそう言う作品であっても聴衆への配慮(阿り?)もあってか、それなりに聞かせようと努力するものです。
ところが、オッテルオーという人はそう言う指揮者の本能からは遠く離れた位置で音楽を作っているように聞こえるのです。

例えば、サン=サーンスの交響曲3番です。「オルガン付き」と題されたこの作品は3管編成のオケにオルガンと4手のピアノが付属し、それがフィナーレの部分では一斉に鳴り響くのです。まさにオーケストラの「売り」である「派手さ」を徹底的に追求した作品です。
ところが、そう言う「派手な」音楽がオッテルローの手にかかると、そう言う演奏効果を極限まで排除すれば、「残るのは何か?」を追求素しているように聞こえてしまうのです。
確かに、こういう作品にとってモノラルでの録音というのは、それだけで大いなる不利な条件であることは否定できません。しかし、このオッテルローの指揮から聞こえるのは、そう言う録音クオリティだけでは説明しきれないほどの「あっけなさ」なののです。
なんだかその裏で「サン=サーンスの音楽なんてこんなもんですよ!」とニヤリと笑っている顔が浮かんできたりするのです。

ところが、それとは真逆なのがフランクのロ短調交響曲です。
この作品はフルトヴェングラーによる録音が一つのスタンダードのようになっているので、まるで波瀾万丈の一篇のドラマであるかのように演奏する人は少なくありません。つまりは、そこでも実態以上に「派手さ」を増幅させて演奏しようとする誘惑から逃れることは難しいのです。ただし、その様な誘惑の中で「勘違い」もしくは「独りよがり」に陥らないためにはフルトヴェングラーと同等とは言わないまでも、それなりの哲学が絶対に必要です。
そう言うものも持たずに「派手さ」を追求すれば実に困ったことになってしまう作品です。

ですから、それなりに良識のある指揮者ならばフルトヴェングラーの猿真似みたいな事からは出来る限り距離をとるとするのが一般的です。

しかしながら、オッテルルオーの場合はそう言う「距離」とはまた違う向き合いのように聞こえます。つまりは音楽を母出に演出するという「誘惑」とは一切無縁なオッテルローの手にかかると、この作品がほどよく「凝縮」されて実に立派な堂々たる交響曲として響くのです。
そう言えば、彼のハイドンの演奏を取り上げて「美しい人はより美しく、それなりの人はそれなりに」と書いたことがあるのですが、その言葉はこの作品に対してもピッタリとあてはまります。
それどころか、厚化粧で塗りたくった「えせ美人」の化粧をはぎ取って素顔を曝すというようなことを平気でやってしまう人だったようです。

このフランクの交響曲も無用な化粧などは綺麗にぬぐい去って、その素敵なキリリとした素顔を私たちにみせてくれるような演奏だといえます。