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ベートーベン:ピアノ・ソナタ第27番 ホ短調 Op.90
(P)アルフレッド・ブレンデル 1962年6月~7月録音をダウンロード
- Beethoven: Piano Sonata No.27 In E Minor, Op.90 [1. Mit Lebhaftigkeit und durchaus mit Empfindung und Ausdruck]
- Beethoven: Piano Sonata No.27 In E Minor, Op.90 [2. Nicht zu geschwind und sehr singbar vorgetragen]
シューベルトやシューマンなどのロマン派に引き継がれていく音楽
ベートーベンの創作の軌跡を辿る上でピアノソナタはその里程標になるのですが、「告別ソナタ」とそれに続くこの「ホ短調のソナタ」の間には4年という小さくないブランクが存在します。
そして、このブランクはピアノソナタだけに限った話ではなくて、概ね1812年から1817年に至る5年間はベートーベンの「苦悩の時代」と言われてきました。
ベートーベンは意外なほどに慎重な男であり、大胆極まる手法で大きく一歩を踏み出した後に必ず収縮しました。その踏み出した大きな一歩の意味をもう一度過去の伝統の中で咀嚼しなおすことで、その「新しさ」を「伝統」の中にシームレスに取り込もうとしたのです。
しかし、音楽を「古典的均衡の中における美」に押し留めるのではなくて、つかまえどころのない「人間的感情の表現」を目指した「新しい道」も頂点に達してしまえば、そこでの収縮は途轍もなく大きなものにならざるを得ませんでした。
そして、その「収縮」は多くの人にとっては「沈黙」としか映らず、その「沈黙」が長く続けば「さすがのベートーベンもスランプか!」となったわけです。
しかし、皮肉なのは、創作の分野においてはその様な「沈黙」を強いられていながら、世間的には大芸術家として祭り上げられ、多くの貴族に取り囲まれる「栄光」を享受するのです。
ただし、そう言う外面的な栄光とは裏腹に、彼の私生活はこの時期は苦難の連続でした。
「不滅の恋人」との破局によって最後の結婚への望みも消えたこと、甥カールの養育権をめぐる訴訟、そして、難聴の進行によってついにはピアノの音すら聞こえなくなったことなどです。
そして、その様な苦悩の沈黙の中でポツリと生み出されたのがこのホ短調のソナタでした。
2楽章構成のこぢんまりとしたそのソナタには、中期の傑作と言われたソナタのような驀進するベートーベンの姿はどこを探しても見つけ出すことは出来ません。
ちなみに、このソナタを献呈されたリヒノフスキー侯爵とのやり取りが残されています。
それは、侯爵がこのソナタの意味をベートーベンに質問したことに対して、ベートーベンは「第1楽章は理性と感情の争い、第2楽章は恋人との会話」と笑いながら答えたというものです。
もちろん、このベートーベンの解答をまともに受け取る必要はありません。
なぜならば、その時侯爵は幸せな「2度目の結婚」を成就したばかりであり、そう言う侯爵に対するリップサービスであったことは明らかだからです。
第1楽章のソナタは実にスリムなスタイルで書かれています。
展開部は開始主題をシンプルに拡大しているだけであり、再現部も提示部と大きな変化はなく、コーダも第1主題を静かに回想しながら閉じられます。
また、調性を確立した後に、その主調による完全終止という古いスタイルもとっています。この古いスタイルは緩徐楽章ではベートーベンは好んで使っていたのですが、ソナタ形式においては次第に避けるようになっていったスタイルでした。
しかし、その様なシンプルで、スリムな形式でありながら、このソナタからは今までにない諦観と密やかさが漂っています。
そして、その様な音楽の佇まいがより明確になるのが、これに続くロンド形式による終楽章です。
ベートーベンはこのソナタにおける発想記号はドイツ語だけにしているのですが、そのロンド楽章には「Nicht zu geschwind und sehr singbar vorgetragen(速すぎないように、そして十分に歌うように演奏すること)」と記しています。
叙情的なロンド主題はとても美しく、それが何度も装飾が施されて姿を現すことで、その美しさは聞き手の耳に刻み込まれます。
この楽章はモーツァルト的ではあるのですが、そこに新しい叙情性を取り入れようとしていることは明らかであり、その意味では、シューベルトやシューマンなどのロマン派に引き継がれていく音楽だと言えます。
また、この楽章には最後の締めくくり方をどのように処理するのかという問題があり、それはピアニストにとってはかなりの難題となっています。
この最後の部分では、きわめて複雑なテンポ設定によって繊細な音楽が語られた後に、最後の小節だけが突然投げ出すようにして終わってしまうのです。
ローゼン先生は、この部分は気心の知れた仲間内で演奏するならば叙情の中のユーモアとして効果を得るだろうが、大規模なコンサートホールで演奏したときにはその効果を期待するのは難しいと述べています。
かといって、最後の部分に少しでもリタルダンドをかければ通俗的になってしまうとも注意を促しています。
些細なことかもしれませんが、あれこれの聞き比べをするときの一つのポイントだとは言えそうです。
- 第1楽章:Mit Lebhaftigkeit und durchaus mit Empfindung und ausdruck(速く、そして終始感情と表情をともなって) ホ短調(ソナタ形式)
- 第2楽章:Nicht zu geschwind und sehr singbar vorgetragen (速すぎないように、そして十分に歌うように演奏すること) ホ長調(ロンド形式)
すみずみまで考え抜かれた主情的な演奏
ブレンデルの録音活動は「Philips」と強く結びついています。何しろ、同じレーベルで2度もベートーベンのピアノ・ソナタの全曲録音を行っているのです。一度目は1970年~1977年にかけて、2度目は1992年~1996年にかけてです。
ピアニストにしてみれば生涯で一度でも全曲録音が出来るならばそれは大いなる勲章ともなるべきものなのですから、同じレーベルで、それも「Philips」のようなメジャー・レーベルで2度も全曲録音を行うというのは破格の扱いです。
しかしなら、ブレンデルと「Philips」の結びつきは最初の録音をはじめた1970年からスタートするのであって、それ以前はアメリカの新興レーベルである「Vox」が彼にとっての活躍の場でした。そして、驚くことに、ブレンデルはこの「Vox」においてもベートーベンのピアノ・ソナタを全曲
録音しているのです。
さらに、協奏曲やバガテル、変奏曲などもほぼ全て取り上げていて、彼は「Vox」において、ベートーベンのピアノ音楽をほぼ全てコンプリートしているのです。
つまりは、ブレンデルは「Vox」にとっても重要な位置を占めるピアニストになっていくのであり、そして、その事を踏み台として「Philips」というメジャー・レーベルとの契約にたどり着くのです。
それにしても、その生涯で3度もベートーベンのピアノ・ソナタを全曲録音したピアニストというのは他にいるのでしょうか。
そう言えば、少し前にフルードリヒ・グルダが1953年から1954年にかけて全曲録音した音源が復刻されて(おそらく、録音から50年が経過しても未発表だったのでパブリック・ドメインとなったのでしょう)、それを勘定に入れればDcca時代のモノラルステレオ混在の録音とAmadeoでのステレオ録音をあわせればグルダも生涯に3度という事になります。
しかしながら、最近復刻された1953年から1954年にかけての録音はウィーンのラジオ局によってスタジオ収録されたにも関わらず、結局は一度も陽の目を見ることはなかったのですから、これを勘定に入れて生涯に3度と言い張るのはいささか無理があるでしょう。
と言うことになれば、ブレンデルの生涯3度というのは異例のことだといえます。
それから、ついでながら言えば、著作権法の改訂によって隣接権の保護期間が50年から70年に延びたことで、グルダのAmadeoでのステレオ録音(1967年録音、1968年リリース)は、まさに目の前でスルリとパブリック・ドメインから身をかわしてしまいました。そして、事情は1970年から開始されたブレンデルの録音も同様であって、それらがパブリック・ドメインの仲間入りすることは大きく遠のいてしまいました。
そうなってみると、1962年から1964年にかけて録音された「Vox」での全集録音はパブリック・ドメインという観点から見ればとても貴重なものだといえます。そして、その録音を今回あらためて聞き直してみて、すみずみまで考え抜いた上で極めて叙情性と主情性の強い演奏であることに気づかされました。
「Vox」時代のブレンデルの演奏は、最初は一刀彫りのような荒々しさが残っていたものが、1962年にピアノ・ソナタを手がける頃には次第に丁寧に作品を彫琢していくように変化していくのが分かります。
誰が言った言葉かは忘れましたが、あるピアニストが、聞き手からは高い人気と評価を得ているがプロのピアニストからの評価が低い人物としてバックハウスとブレンデルの名前を挙げていました。
この「聞き手からは高い人気」という言に異論はないでしょう。バックハウスもブレンデルも大衆的な人気と評価があったが故に、彼ららはそれぞれ2度、3度と全曲録音を行えたのです。しかしながら、後者の「プロのピアニストからの評価が低い」という事については、バックハウスに関しては(とりわけ晩年のステレオ録音)ある程度理解できる部分があるのですが、ブレンデルに関しては何故にそう言う評価が出てくるのかはよく分かりません。
実は、私などは、長きにわたってブレンデルというのはそれほど良く聞くピアニストではありませんでした。確かに、どの作品を聞いても良く考え抜かれた演奏であって、技術的にも申し分なく些細な隙も見いだせないような人だという認識がありました。しかし、それは裏返せば、何をやってもソツはないものの平均的な演奏を突き破る驚きにかけたピアニストと言う印象があったのです。ですから、どうして彼に人気があるのかが不思議だったのですが、現実は3度も全曲録音するほどの聞き手からの後押しがあったのです。
ですから、私などは、さぞや専門家からの評は高いんだろうけれど、その良さが私には分からないんろう、ななどと考えていたものです。
しかし、そう言うブレンデルへの評価はこの「Vox」での全曲録音を聞いてみて私の中で大きく変化しました。
その演奏は最初にも少しふれたように、平均的でソツがないどころか、実に叙情性にあふれた聞き手の心の琴線に触れてくる演奏だったのです。おそらく、普通の人はベートーベンのピアノ・ソナタを同一のピアニストで全曲聴くなどと言うことは殆どやらないと思います。しかし、今回彼の演奏でじっくりと聞いてみれば、どうやら私が勝手に思いこんでいた姿とは随分と異なることに気づかされました。
何故ならば、70年代のステレオ録音から何枚かを聞き直してみたのですが、それもまた十分すぎるほどに叙情性の強いベートーベンになっていることに気づかされたのです。しかし、あまりにもすみずみにまで配慮が行き届き、その配慮されたものが極めて高い完成度で演奏されているが故に、その完成度の方に耳が奪われて平均的でソツのない演奏と聞き間違えてしまったのです。
この「Vox」での演奏を聞いていると。「悲愴」とか「月光」とか「アパショナータ」というようなタイトル付きの有名作品よりも、どちらかと言えば地味なナンバーだけの作品の方が魅力的に聞こえます。いや、それは言い方が逆かも知れません。有名な作品の良さはすでによく知っているので「今さら」という感じなのですが、あまり聞く機会の少ない地味なソナタに関しては「これってこんなにも美しい場面が散りばめられているんだ」という事に気づかせてくれるのです。
確かに、こういうアプローチだと、「ワルトシュタイン」とか「アパショナータ」のように、デュナーミクの拡大によって今までは考えられなかったような「巨大さ」を追求したような作品では物足りなさがあるかもしれません。後期の30番から32番の3作品に関しても、とりわけ30番と31番に関してはいささか硬直したような雰囲気があって、いささか物足りなさを感じたことは正直に申し述べておかなければ行けません。
しかし、全体的に見れば、若きブレンデルのあふれるようなロマンティシズムが高い完成度で表白されているこの全集の価値は小さくはないかと思います。ただ、いささか残念なのは、現時点では初期ソナタの音源が私の手もとにないので、全集としてコンプリート出来ないことです。すでにこの録音は廃盤となっているようなので、メットか中古レコード店をまわるしかないようです。
それから、余談ながら、ブレンデルという人は80年代から90年代にかけては、疑いもなく時代を代表するピニストだったのですが、その名前を聞かなくなってから随分と時が経ちます。ですから、すでに鬼籍には入られたのかと思っておられる方も多いかと思うのですが、実は今(2019年)も存命です。
音楽家というのは、とりわけ指揮者とピアニストは「死ぬまで現役」という人が多いのですが、ブレンデルは珍しくも77歳で現役を引退したのです。2008年12月18日のウィーン・フィルとの公演がラスト・コンサートだったそうです。
そして、その後は教育活動に力を入れることになり、今も元気にレクチャーを行っているようです。
ブレンデルのピアノの特徴を一言で言えば、徹底的に考え抜かれた解釈によって繊細極まる造形を行うことにあります。それ故に、その様な完璧性が保持できなくなった時に、潔く撤退するだけの鋭い自己批判力があったと言うことなのでしょう。
私はこの潔さからしても、「プロのピアニストからの評価が低い」という言にはどうしても賛同できないのです。
引退した後のブレンデルのレクチャーを聴いた人の話によると、90歳を目前にした時でもピアノの腕前はそれほど衰えていないように感じたそうです。
しかしながら、それもまた気楽な聞き手ゆえに言える言葉なのでしょう。