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ドヴォルザーク:交響曲第8番 ト長調 作品88


ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 1961年9月29日録音をダウンロード

  1. Dvorak:Symphony No.8 in G major, Op.88 (B.163) [1.Allegro con brio]
  2. Dvorak:Symphony No.8 in G major, Op.88 (B.163) [2.Adagio]
  3. Dvorak:Symphony No.8 in G major, Op.88 (B.163) [3.Allegretto grazioso - Molto Vivace]
  4. Dvorak:Symphony No.8 in G major, Op.88 (B.163) [4.Allegro ma non troppo]

一度聞けば絶対に忘れないほどの美しいメロディーです



メロディーメーカーと言われるドヴォルザークですが、ここで聞くことのできるメロディーの美しさは出色です。
おそらく一度聞けば、絶対に忘れることのできない素晴らしいメロディーです。

私がこのメロディーに初めてであったのは、車を運転しているときでした。
いつものようにNHKのFM放送を聞きながら車を走らせていました。おそらく何かのライヴ録音だったと思います。

第2楽章が終わり、お決まりのように観客席の咳払いやざわめきが少し静まったころを見計らって、第3楽章の冒頭のメロディーが流れはじめました。
その瞬間、ラジオから流れる貧弱な音でしたが耳が釘付けになりました。

それは、今まで聞いたことがない、この上もなく美しくメランコリックなメロディーでした。
その頃は、クラシック音楽などと言うものを聞き始めて間もない頃で、次々と新しい音楽に出会い、その素晴らしさに心を奪われると言う本当に素晴らしい時期でした。
そんな中にあっても、この出会いは格別でした。

実は、車を運転しながら何気なく聞いていたので、流れている音楽の曲名すら意識していなかったのです。
第4楽章が終わり、盛大な拍手が次第にフェイドアウトしていき、その後アナウンサーが「ドヴォルザーク作曲、交響曲第8番」と読み上げてくれて初めて曲名が分かったような次第です。

翌日、すぐにレコード屋さんにとんでいったのですが、田舎の小さなお店ですから、「えぇ、ドヴォルザークって9番じゃなかったですか?」等とあほみたいな事を言われたのが今も記憶に残っています。
クラシック音楽を聴き始めた頃の、幸せな「黄金の時代」の思い出です。

ウィーンフィルの手の中にあるように見せながら、それでも一番肝心なところは握って離さない

指揮者にとってベートーベンの交響曲の録音を任されるというのは一つのステイタスでしょう。それがメジャーレーベルからの依頼であれば尚更ですし、さらに全集としてまとめてもらえるならば、それこそ一流のあかしと言うことになります。
そう考えると、50年代、60年代そして70年代と3回の交響曲全集を完成させたカラヤンというのは、やはりただ者ではありません。そして、さらに凄いのは、その3回の全集にはそれぞれの個性がはっきりと刻印されて、それぞれに他にかえがたい個性と魅力を持っていることです。

極めて簡単に言えば、50年代にフィルハーモニア管と完成させた全集はまさに正当派ベートーベンであり、60年代のベルリンフィルとの全集は颯爽とした格好いいカラヤンの姿が刻み込まれています。個人的には、この二つの全集は素晴らしい演奏であったと思います。
そして、70年代に同じくベルリンフィルと完成させた全集はいわゆる「カラヤン美学」に貫かれた演奏でした。
おそらく、アンチ・カラヤンの人が一番嫌ったベートーベン像でしょうが、しかし、それでもそれは今までのものとは違う新しいベートーベン像を提示するという意味では「個性的」な録音であったことは否定できません。
なお、80年代の全集については沈黙を守りましょう。(^^;

そして、この59年にポツンとウィーンフィルと録音した7番の交響曲をそう言う流れの中においてみると面白いものが見えてくるような気がします。
それは、この時期に何故かDecca録音でウィーンフィルとまとまった録音を残しているのですが、そこではあまり自己主張を前面に出すことなく、かなりの部分をウィーンフィルの自主性にゆだねている様な雰囲気が感じられるのです。そして、そう言う自主性にゆだねた結果として表れてくるのがウィーンフィルらしい豊かな弦楽器の響きです。

おそらく、この第7番の第1楽章と第2楽章を聞いていると、演奏しているオケも、指揮しているカラヤンも実に楽しく音楽にひたっているような気がします。そして、その艶やかなウィーンフィルの響きは後の「レガート・カラヤン」を予感させるものがあります。
ところが、音楽というものは不思議なもので、指揮者もオケも楽しく演奏しているから素晴らしい音楽ができるかと言えば、決してそんな事はありません。
それはこの第7番の録音でもはっきりと分かることですが、お互いが気持ちよく演奏しているが故に何処か音楽が緩んできて、それが結果としてベートーベンには必須の強い意志のようなものが希薄になっていくのです。

ただし、カラヤンがただ者ではないのは、音楽がその様な「甘い」ものになっていることを感じとった第3楽章以降は一気にギアを入れ替えるのです。そして、ウィーンフィルらしい艶やかな響きは保持しながら最後のフィナーレに向かってベートーベンらしい強靱な意志が感じとれるクライマックスへと音楽を導いていきます。
そして、そう言うことが世界で一番性悪なオケに対して出来ることがカラヤンの凄いところなのでしょう。

しかし、こういう演奏を聞くとカラヤンがすでに理想として「レガート・カラヤン」を指向していたことが窺えます。そして、この時期のウィーンフィルとの録音は、そのの地に手兵であるベルリンフィルにそう言う美学を植え付けるための一つの指標になったのかもしれません。
そして、そう言うウィーンフィルの自主性にゆだねて、そう言う横へ流麗に流れていく動きに無理をしないで身をゆだねることで上手くいってしまっているのがドヴォルザークの交響曲第8番です。

カラヤンは結構ドヴォルザークの交響曲を録音しているのですが、演奏と録音の両方において、一番上手くいっているのがこのウィーンフィルとの61年録音かもしれません。
確かに、ゆったりとしたテンポで始まる第1楽章はまさにウィーンフィルに身をゆだねているという感じで、かなり大胆なリタルダンドなどもカラヤンの指示と言うよりはウィーンフィルのやりたい放題みたいな感じがします。第2楽章の大らかな歌わせ方も同様です。
そして、何といっても弦楽器群の美しさが「歌う人」であるドヴォルザークの音楽をより華やかなものにしていきます。

そして、面白いのは、一番歌べき第3楽章では逆に早めのテンポですすめていくのですが、それが逆にボヘミアン的な悲しみを引き出しています。ここはおそらくカラヤンのアイデアでしょう。
そして、金管による晴れ晴れとしたファンファーレで始まる終楽章でも、細かい表情をつけるところはつけながらもビシッと締めることで「でも、やっぱり最後はオレの美学によるドヴォルザークなんだからね!」という見得を切ってみせるのです。

つまりは、ウィーンフィルの手の中にあるように見せながら、それでも一番肝心なところは握って離さないしたたかさを見せるのです。
かつては筋金入りの「アンチ・カラヤン」だった私も変われば変わるものだと、自分でも驚いている次第です。