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モーツァルト:交響曲第35番 ニ長調 "ハフナー" K.385
オットー・クレンペラー指揮 フィルハーモニア管弦楽団 1960年10月録音をダウンロード
- Mozart:Symphony No.35 in D major, K.385 "Haffner" [1.Allegro con spirito]
- Mozart:Symphony No.35 in D major, K.385 "Haffner" [2.Andante]
- Mozart:Symphony No.35 in D major, K.385 "Haffner" [3.Menuetto]
- Mozart:Symphony No.35 in D major, K.385 "Haffner" [4.Presto]
悩ましい問題の多い作品です。
一般的に後期六大交響曲と言われる作品の中で、一番問題が多いのがこの35番「ハフナー」です。
よく知られているように、この作品はザルツブルグの元市長の息子であり、モーツァルト自身にとっても幼なじみであったジークムント・ハフナーが貴族に列せられるに際して注文を受けたことが作曲のきっかけとなっています。
ただし、ウィーンにおいて「後宮からの誘拐」の改訂作業に没頭していた時期であり、また爵位授与式までの日数もあまりなかったこともあり、モーツァルトといえどもかなり厳しい仕事ではあったようです。そして、モーツァルトは一つの楽章が完成する度に馬車でザルツブルグに送ったようですが、かんじんの授与式にはどうやら間に合わなかったようです。(授与式は7月29日だが、最後の発送は8月6日となっている)
それでも、最終楽章が到着するとザルツブルグにおいて初演が行われたようで、作品は好評を持って迎えられました。
さて問題はここからです。
よく知られているように、ハフナー家に納品(?)した作品は純粋な交響曲ではなく7楽章+行進曲からなる祝典音楽でした。その事を持って、この作品を「ハフナーセレナード」と呼ぶこともあります。しかし、モーツァルト自身はこの作品を「シンフォニー」と呼んでいますから、祝典用の特殊な交響曲ととらえた方が実態に近いのかもしれません。実際、初演後日をおかずして、この中から3楽章を選んで交響曲として演奏された形跡があります。
そして、このあとウィーンでの演奏会において交響曲を用意する必要が生じ、そのためにこの作品を再利用したことが問題をややこしくしました。
馬車でザルツブルグに送り届けた楽譜を、今度は馬車でウィーンに送り返してもらうことになります。しかし、楽譜は既にハフナー家に納められているので、レオポルドはそれを取り戻してくるのにかなりの苦労をしたようです。さらに、7楽章の中から交響曲に必要な4楽章を選択したのはどうやら父であるレオポルドのようです。
こうしてレオポルドのチョイスによる4楽章で交響曲として仕立て直しを行ってウィーンでのコンサートで演奏されました。ところが、後になって楽器編成にフルートとクラリネットを追加された形での注文が入ったようで、時期は不明ですがさらなる改訂が行われ、これが現在のハフナー交響曲の最終の形となっています。
つまりこの作品は一つの素材を元にして4通りの形(7楽章+行進曲・3楽章の交響曲・4楽章の交響曲・フルート・クラリネットが追加された4楽章の交響曲)を持っているわけす。
一昔前なら、最後の形式で演奏することに何の躊躇もなかったでしょうが、古楽器ムーブメントの中で、このような問題はきわめてデリケートな問題となってきています。とりわけ、フルートとクラリネットを含まない方に「この曲にぼくは全く興奮させられました。それでぼくは、これについてなんら言う言葉も知りません。」と言うコメントをモーツァルト自身が残しているのに対して、フルートとクラリネットありの方には何のコメントも残っていないことがこの問題をさらにデリケートにしています。
やはり今後はフルートとクラリネットを入れることにはためらいが出てくるかもしれません。
クレンペラーという男だけが表現できるモーツァルト
私の中ではクレンペラーとモーツァルトというのは今ひとつピンとこない組み合わせのようです。オペラでは「魔笛」や「フィガロの結婚」で素晴らしい録音を残しているのに、交響曲や管弦楽になるとどうにも相性の悪さを感じざるを得ません。そのためでしょうか、振り返ってみればコンセルトヘボウと録音した25番の小ト短調を1曲だけアップしてるだけです。(2020年8月1日現在)つまりは、私の中ではあまり食指が動かない存在だったようです。
しかしながら、さすがに1曲しか上げていないというのはまずいので、コロナ禍によって時間だけは腐るほどあるので、幾つかの録音を聞き直してみました。
そして、あらためて気づいたのは、クレンペラーのモーツァルトには伸びやかさや柔らかさのような物が欠落していると言うことです。
言葉をかえれば、ハイドンのシンフォニーを演奏するときと同じような方法論でモーツァルトにのぞんでいる雰囲気なのです。そして、それがハイドンの場合だと「ハイドンの交響曲ってこんなにも立派な音楽だったのか」と感心させられるのですが、それがモーツァルトとなるとあまりにも立派に過ぎて、彼の音楽に必要な微笑みのような物が消えてしまって、何ともいえず無骨で不器用な音楽だなと感じてしまうのです。
しかし、モーツァルトの音楽のスタンダードからは離れていても、クレンペラーという指揮者はそう言う男だと割り切って聞いてみると、それはそれなりに最後まで聞かせてしまう「力」を持っていることは事実です。
そして、もう一つはっきりしているのは、60年のハフナー・シンフォニーあたりまではそう言うクレンペラーらしい厳しさを維持しているのですが、それを過ぎると明瞭にスタイルが変わってしまうことです。
例えば、62年に録音されたジュピターは明らかにテンポが遅すぎます。
率直に行って、その遅さからは彼の「衰え」を感じざるを得ません。ところが、そんなテンポ設定であっても古典派交響曲としての構造はしっかり把握して最後まで造形を崩さないが故に、聞いているうちに「こういうのもありかな」という思いがしてきます。
そして、話はいささか前後するのですが、1955年にモノラルで録音したト短調シンフォニーなどは、その無骨なまでの生真面目さ故に悲しみは疾走する(もっとも、小林秀雄が「疾走する悲しみ」と述べたのはト短調の弦楽五重奏曲に対してですが)のではなく、痛切な独白のように聞こえてくるのです。これもまたクレンペラーならではのモーツァルトなのかもしれません。
つまりは、全ての人が受け入れられるようなモーツァルトでないことは事実なのですが、それは逆から見れば、クレンペラーという男だけが表現できるモーツァルトの姿がそこにあることは事実なのです。
ただし、何気なく聞いた63年の29番のライブ録音にはさすがに仰け反ってしまいました。そのあり得ないほどのスローテンポでこの上もなく大きな構えでこの可愛らしい交響曲を演奏しています。そこには「リズム」などと言うものは消えてしまっていて、まるで巨大な軟体動物がのたうっているような雰囲気なのです。ですから常識的な感覚から言えば「変態」的だと言われても仕方がないでしょう。
しかし、恐ろしいのは、それでも聞いているうちにクレンペラーという男の中にある音楽の「嘘のなさ」みたいなものに惹きつけられている自分に気づくのです。
もちろん、こういう録音は一番最初に聞いてはいけないことは確かです。
しかし、多くの録音を聞いてきた人には一度はお試し願いたい録音です。