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ベートーヴェン:交響曲第8番ヘ長調 Op.93


シャルル・ミュンシュ指揮 ボストン交響楽団 1958年11月30日録音をダウンロード

  1. Beethoven:Symphony No.8 in F major , Op.93 [1.Allegro Vivace E Con Brio]
  2. Beethoven:Symphony No.8 in F major , Op.93 [2.Allegretto Scherzando]
  3. Beethoven:Symphony No.8 in F major , Op.93 [3.Tempo Di Menuetto]
  4. Beethoven:Symphony No.8 in F major , Op.93 [4.Allegro Vivace]

谷間に咲く花、なんて言わないでください。



初期の1番・2番をのぞけば、もっとも影が薄いのがこの8番の交響曲です。どうも大曲にはさまれると分が悪いようで、4番の交響曲にもにたようなことがいえます。
しかし、4番の方は、カルロス・クライバーによるすばらしい演奏によって、その真価が多くの人に知られるようになりました。それだけが原因とは思いませんが、最近ではけっこうな人気曲になっています。

たしかに、第一楽章の瞑想的な序奏部分から、第1主題が一気にはじけ出すところなど、もっと早くから人気が出ても不思議でない華やかな要素をもっています。
それに比べると、8番は地味なだけにますます影の薄さが目立ちます。

おまけに、交響曲の世界で8番という数字は、大曲、人気曲が多い数字です。

マーラーの8番は「千人の交響曲」というとんでもない大編成の曲です。
ブルックナーの8番についてはなんの説明もいりません。
シューベルトやドヴォルザークの8番は、ともに大変な人気曲です。

8番という数字は野球にたとえれば、3番、4番バッターに匹敵するようなスター選手が並んでいます。そんな中で、ベートーベンの8番はその番号通りの8番バッターです。これで守備位置がライトだったら最低です。

しかし、私の見るところ、彼は「8番、ライト」ではなく、守備の要であるショートかセカンドを守っているようです。
確かに、野球チーム「ベートーベン」を代表するスター選手ではありませんが、玄人をうならせる渋いプレーを確実にこなす「いぶし銀」の選手であることは間違いありません。

急に話がシビアになりますが、この作品の真価は、リズム動機による交響曲の構築という命題に対する、もう一つの解答だと言う点にあります。
もちろん、第1の解答は7番の交響曲ですが、この8番もそれに劣らぬすばらしい解答となっています。ただし、7番がこの上もなく華やかな解答だったのに対して、8番は分かる人にしか分からないと言う玄人好みの作品になっているところに、両者の違いがあります。

そして、「スター指揮者」と呼ばれるような人よりは、いわゆる「玄人好みの指揮者」の方が、この曲ですばらしい演奏を聞かせてくれると言うのも興味深い事実です。
そして、そう言う人の演奏でこの8番を聞くと、決してこの曲が「小粋でしゃれた交響曲」などではなく、疑いもなく後期のベートーベンを代表する堂々たるシンフォニーであることに気づかせてくれます

忘れ去ってしまうには惜しい録音〜ミュンシュのベートーベン

<追記>
ミュンシュ&ボストン響のベートーベンの交響曲録音はすでに全て紹介しているつもりだったのですが、何故かこの最後の録音となった第8番の交響曲が抜け落ちていました。第8番はベートーベンの交響曲の中でも地味な部類に属する作品ですから、「落ち穂拾い」の感は免れませんが、あらためて聞いてみると、太めの筆で一気に描き上げたような雄渾な響きで、ともすればこぢんまりと洒落た感じで仕上げる録音が多い中ではなかなかに異彩を放つ演奏だなと感心させられました。

そして、全く持ってどうでもいい話なのですが、この交響曲を聞くたびに、その昔、某在阪オーケストラでいつも不安そうな顔をして座っていたとあるホルン奏者のことを思い出してしまいます。この作品の一つの聞きどころは第3楽章のホルンの独奏なのですが、その日のコンサートでも多くの予想に違わず彼は見事に音を外しまくっていました。
おそらく、オーケストラ・プレーヤとしては辛い日々だったことでしょう。

そして、このボストン響のホルン奏者の見事なまでの独奏を聴くと、何とも言えず複雑な感情がわき上がってきます。

それから、そのついでにFlacファイルも第9番以外は上げていないことにも気づきました。様子を見ながら、少しずつそちらの方も追加していきたいと思います。
<追記終わり>



私にとってミュンシュといえばその最晩年のパリ管とのコンビで録音した幻想とブラームスの1番でした。
特にブラームスはまるでフルトヴェングラーを思わせるような演奏で、ブラ1大好きな若き日のユング君にとっては、それこそ擦り切れるほど聞いた録音でした。それだけに、あの吉田大明神が「世界の指揮者」の中で、ミュンシュの初来日の時の演奏を「目の前にスコアが浮かび上がってくるような明晰きわまりない演奏で驚かされた」・・・みたいなことを書いているのを発見して驚かされたのも懐かしい思い出です。

パリ管とのコンビで知っているミュンシュの姿はそう言う明晰さとは対極にあるような激情をぶつけた熱い演奏だったので、何かの間違いではないかと思ったものです。もっとも、その後ボストン時代の録音も聞くようになってそのクエスチョンは少しずつ解消されるようになったのですが、ホントにこんなにも対照的な二面性を持った指揮者は他には思い当たりません。

それは、ワルターがヨーロッパ時代とアメリカ時代で芸風を大きく変えたというのとは少し性格の違う話のように思います。
ワルターの場合はヨーロッパ時代の演奏こそが彼の本質であって、アメリカ時代の男性的で剛毅な演奏は「営業上の理由」が少なくなかったように思えます。しかし、ミュンシュの場合はボストン時代によくかいま見られた明晰でクリアな演奏も彼の本質から発したものであれば、時にライブで見せた熱い激情の爆発も彼の本質であったように思えるからです。
いわば、ある意味では二律背反するようなアポロ的な側面とデモーニッシュな側面がミュンシュという男の中では何の矛盾も感じず同居していたように見えます。

しかし、さらにつっこんで考えてみれば、それなりの指揮者ならば誰でもそう言う二面性は内包しているのが当然なのかもしれません。例えば、セルやライナーをその表面だけを垣間見て機能性重視だけの冷たい演奏と断じれば大きな過ちを起こすことは周知の事実です。
彼らのその強固な造形性の内部でたぎるような情熱が息づいていることは、聞く耳さえあれば誰もが了解できることです。しかし、彼らは、そのその様な熱い思いを「ナマの形」でさらけ出すことは生涯良しとはしませんでした。
その事を思えば、ミュンシュという人の二面性は、結局はセルやライナーほどには己を律することができなかった結果なのかもしれません。

そう言えば、一部ではミュンシュの爆発したライブを高く評価する向きもあるようで、その事は決して否定するつもりはないのですが、何度も繰り返して聞くにはいささか粗雑にすぎる感も否定できません。

ミュンシュが指揮者としてキャリアを本格的にスタートさせたのは40代です。これは10代の頃に歌劇場の下積みからスタートすることの多かった同時代の指揮者とくべればあまりにも遅いスタートといわざるをえません。もちろん、オーケストラプレーヤーとしてフルトヴェングラーをはじめとして多くの指揮者から学ぶことは多かったでしょう。しかし、指揮者にとって歌劇場の下積みからたたき上げで学ぶことがいかに重要かは指摘するまでもないことです。
そう言う、下積みからのたたき上げの経験がないということで言えば、いささかアマチュア的な指揮者だったと言えばお叱りを受けるでしょうか?

しかし、恣意性が至るところで顔を出すライブ録音などを聞かされると、そして、セルやライナーのようなプロ中のプロと比べれば、そう言う思いが頭をよぎる人も少なくないのではないでしょうか?

残念ながらミュンシュの評価はフランスがその国家的威信をかけた創設したパリ管を任された頃を絶頂とすると、その後の評価は下がる一方のように見えます。近年、ボストン時代の録音がまとまってリリースされましたが、残念ながら再評価の機運もあまりないようです。この辺のことも、そう言うアマチュア的な弱さが大きな原因となってはいないでしょうか?
ただし、今回ボストン時代のミュンシュをまとめて聞いてみて、明晰さを前面に押し出して、恣意性を極力抑え込んだ録音はなかなかに立派なものだと再認識されました。それは、彼が得意としたベルリオーズ等のフランス音楽だけなでなく、ベートーベンなどのドイツ系の音楽においても同様のことがいえます。

ミュンシュのベートーベンといえば9番に関しては昔から評価が高かったのですが、それ以外の作品もなかなかに立派なものです。どれもこれも造形がしっかりして、曖昧さというものが全くない明晰な演奏ばかりです。そして、ボストン響がもつどこかくすんだような響きがヨーロッパのオケを思わせるような風情があって、セルやライナーとは一線を画しています。
やはり、忘れ去ってしまうには惜しい録音です。