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ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第1番 ト長調 「雨の歌」 Op. 78


(Vn)ヨセフ・スーク:(P)ジュリアス・カッチェン 1967年3月1日~3日録音をダウンロード

  1. Brahms:Violin Sonata No.1 in G major, Op.78 [1.Vivace ma non troppo]
  2. Brahms:Violin Sonata No.1 in G major, Op.78 [2.Adagio]
  3. Brahms:Violin Sonata No.1 in G major, Op.78 [3.Allegro molto moderato]

ロマン派におけるヴァイオリン・ソナタの傑作



ブラームスは3曲のヴァイオリン・ソナタを残していますが、これを少ないと見るかどうかは難しいところです。確かに一世代前のモーツァルトやベートーベンと比べると3曲というのはあまりにも少ない数です。しかし、ベートーベン以降のロマン派の作曲家のなかで3曲というのは決して少ない数ではありませんし。
さらに、完成度という観点から見ると、これに匹敵する作品はフランクの作品以外には思い当たりませんから、そういう点を考慮すれば3曲というのは実に大きな貢献だという方が正解かもしれません。

ブラームスの第1番のソナタは1878年から79年にかけて、夏の避暑地だったベルチャッハで作曲されました。
45才になってこのジャンルに対する初チャレンジというのはあまりにも遅すぎる感がありますが、それはブラームスの完全主義者としての性格がそうさせたものでした。

実は、この第1番のソナタに至るまで、知られているだけでも4曲のソナタが作曲されたことが知られています。そのうちの一つはシューマンが出版をすすめたにもかかわらず、リストたちの忠告で思いとどまり、結果として失われてしまったイ短調のソナタも含まれています。
他の3曲は弟子の証言から創作されたことが知られているものの、ブラームスによって完全に破棄されてしまって断片すらも残っていません。
ブラームスがファーストシンフォニーの完成にどれほどのプレッシャーを感じていたかは有名なエピソードですが、そのプレッシャーは決して交響曲だけに限った話ではありませんでした。ベートーベンが完成形を提示したジャンルでは、ことごとくプレッシャーを感じていたようで、そのプレッシャーがヴァイオリン・ソナタというジャンルでも大量の作品廃棄という結果をもたらしたようです。

では、ヴァイオリン・ソナタという形式の「何」が、ブラームスに対して多大な困難を与えたのでしょうか。
もちろん、私ごとき愚才がブラームスの心中を推し量ることなどできようはずもないのですが、そこを無理してあれこれ思案をしてみれば、おそらくはヴァイオリンとピアノのバランスをどうとるかという問題だったのではないかと思います。

言うまでもないことですが、ヴァイオリン・ソナタの歴史を振り返ってみれば、ヴァイオリンとピアノという二つの楽器が対等な関係ではなくて、どちらかが主で他が従という形式をとっていました。それが、モーツァルトという天才によって初めて両者が対等な関係でアンサンブルを形成する音楽へと発展していきました。
そして、この方向性のもとで一つの完成形を示したのが言うまでもなくベートーベンでした。

しかし、一連のベートーベンの作品を聴いてみると、事はそれほど単純ではないことに気づかされます。
鍵盤楽器としてのピアノの機能が未だに貧弱だったモーツァルトの時代では、ヴァイオリンとピアノは十分に共存できましたが、ベートーベンの時代になるとピアノは急激に発展していき、オーケストラを向こうに回して一人で十分に対抗できるまでの力を蓄えてしまいます。
それに比べると、ヴァイオリンという楽器は弓の形状は多少は変わったようですが、弓を弦に擦りつけて音を出すという構造は全く変わっていないわけですから大きな音を出すにも限界があります。

ですから、クロイツェル・ソナタなどでピアノが豪快にうなりを上げて弾ききってしまうと、さすがのベートーベンをもってしてもヴァイオリンがかすんでしまう場面があることを否定できません。
そして、ロマン派の時代になるとピアノはその機能を限界まで高めていきます。(ブラームスのピアノコンチェルトの2番を聴くべし!!)
つまり、頭の中だけでこの両者を丁々発止のやりとりをさせて上手くいったと思っても、実際に演奏してみるとピアノがヴァイオリンを圧倒してしまい「何じゃこれ?」という結果になってしまうのです。

つまり、この二つの楽器の力量差を十分に配慮しながら、それでもなおこの二つの楽器を対等な関係でアンサンブルを成立させるにはどうすればいいのか?
これこそが、45才まで書いては廃棄するを繰り返させた「困難」だったのではないでしょうか?
もっとも、これは私の愚見の域を出ませんから、あまりあちこちでいいふらさないように・・・(^^;

しかし、ブラームスのヴァイオリン・ソナタを聴くと、この二つの楽器が実に美しい調和を保っていることに感心させられます。
ベートーベンでは、時にはピアノがヴァイオリンを圧倒してしまっているように聞こえる部分もあるのですが、ブラームスではその様な場面は皆無と言っていいほどに、両者は美しい関係を保っています。そして、その様な絶妙のバランスを保ちながら、聞こえてくる音楽からはしみじみとした深い感情がにじみ出してきます。
これはある意味では一つの奇跡と言っていいほどの作品群です。

ヴァイオリン・ソナタ第1番ト長調op.78「雨の歌」


ブラームスが夏の避暑地として愛していたベルチャッハで1878年から79年にかけて作曲されました。
副題の「雨の歌」というのは、第3楽章の冒頭の旋律が歌曲「雨の歌」から引用されているためにつけられたものです。しかし、その様な単なる引用にとどまらず、作品全体を雨の日の物思いにふけるしみじみとした感情のようなものが支配しています。特に第2楽章はその様な深い感情がしみじみと歌われる楽章であり、一度聴けば忘れることのできない音楽です。

「爽やか」なブラームスに仕上がっている

ヨセフ・スークは日本とは非常になじみ深いヴァイオリニストでした。初めての来日はソリストとしての活動を強化しはじめた1959年9月に世界一周ツアーを行った時でした。そして、同じ年の秋には、アンチェル指揮チェコ・フィルのツアーにソリストとして同行しました。そして、この続けての来日でよほど日本のことを気に入ったのか、その後はソリストとしてだけでなく、「スーク・トリオ」の一員として数多く来日することになります。

その演奏スタイルは一言で言えば「端正」という言葉がピッタリであり、いささか細身ではあっても透明感溢れる美しい響きが魅力的でした。ただし、年を兼ねるにつれていささか切れ味に欠けて、よく言えば温かみのある音色と言われたのですが、これはシルバーシート優先ならではの日本での評価でしょうね。(^^;

そんなスークがカッチェンとコンビを組んで1967年にブラームスのヴァイオリン・ソナタを一気に全曲録音してくれたのがここで紹介している演奏です。幸いなことに、その録音はその年のうちにリリースされたのでぎりぎりでパブリック・ドメインの仲間入りをすることになりました。
まさにぎりぎりセーフという感じです。

さて、その演奏の方なのですが、カッチェンという人はソロの時はかなり強靱でぐいぐいと前に出てくることもあるのですが、こういう「合わせもの」になると相方を立てて引き気味になるという傾向があります。カッチェンは50年代にリッチとブラームスのソナタを録音しているのですが、そこではぐいぐいと前に出てくるリッチをカッチェンがしっかりとサポートしている雰囲気です。
そして、その傾向はこの録音でも顕著です。

ただし、そう言う引き気味のカッチェンのピアノに対してスークのいささか細身で端正なヴァイオリンが加わると「薫風香る」とまでは言わなくても「爽やか」なブラームスに仕上がっています。
ただし、ブラームスのヴァイオリン・ソナタに「爽やか」という言葉が誉め言葉になるのかと言えばいささか困ってしまいます。つまりは、雰囲気的にどちらもお互いに気遣いすぎて両方とも引き気味になってるように聞こえてしまうのです。

おそらく、大多数の人はもう少し明暗にとんだ重みのある音楽を期待すると思うのですが、要はなんだか両方ともに引き気味のような感じになっていていささか軽すぎる音楽になっているように思われるのです。どうやら、音楽というのは我が儘な奴がいてこそ面白くなる面がある出会って、両方ともに真面目な人格者だと逆に物足りない部分がでてしまうと言うことなのでしょう。

しかし、暗くて重いだけがブラームスではないので、たまにはこういう明るく軽くて爽やかさを感じられるブラームスもいいでしょう。つまりは、こういう人格者同士の組み合わせも時には煩悩をはらうにはいいのかもしれません。

ただ、一つだけ残念なのは、このカッチェンとスークにチェロのシュタルケルが加わって録音したブラームスのトリオが文句なく素晴らしいのですが、そちらの方は1968年の録音なので、今回の著作権法の改訂でまさにパブリック・ドメイン目前でスルリと滑り落ちてしまったことです。
どちらかと言えば抑え気味の二人に剛直なシュタルケルが加わると全体の雰囲気がガラリと変わり実に情感豊かなブラームスになっていて個人的には大好きな録音でした。

実にもって残念なことです。