FLAC データベース>>>Top
ベートーベン:交響曲第1番 ハ長調 作品21
ウィリアム・スタインバーグ指揮 ピッツバーグ交響楽団 1964年4月27日~29日録音をダウンロード
- Beethoven:Symphony No.1 in C major , Op.21 [1.Adagio Molto; Allegro Con Brio]
- Beethoven:Symphony No.1 in C major , Op.21 [2.Andante Cantabile Con Moto]
- Beethoven:Symphony No.1 in C major , Op.21 [3.Menuetto; Allegro Molto E Vivace]
- Beethoven:Symphony No.1 in C major , Op.21 [4.Adagio; Allegro Molto E Vivace]
18世紀の交響曲の集大成であり、ハイドンの総決算
ベートーベンという人の作曲家としての道筋を辿るときに、重要な目印になるのが32曲のピアノ・ソナタです。
ベートーベンという人はクラシック音楽の世界を深く掘り下げた人であるのですが、驚くほど多方面にわたって多様な音楽を書いた人でもありました。さすがに、オペラは彼の資質から見ればそれほど向いている分野ではなかったようなのですが、それでも「フィデリオ」という傑作を残しています。
特定の分野に絞って深く掘り下げた人はいますし、多方面にわたって多くの作品を書き散らした人もいます。しかし、ベートーベンのように幅広い分野にわたって革命的と言えるほどに深く掘り下げた人は、他にモーツァルトがいるくらいでしょうか。
そんなベートーベンが、その生涯にわたって創作を続けた分野がピアノ・ソナタであり、それ以外では交響曲と弦楽四重奏の分野でしょうか。
そして、この3つの中でもっとも数多くの作品を残したのがピアノ・ソナタですから、ピアノ・ソナタこそがもっとも細かい目盛りでベートーベンという男を計測できるのです。
この計測器を使って初期の1番と2番の交響曲を計測してみれば、それが同列に論じてはいけないことは一目瞭然です。
- ベートーベン:交響曲第1番 ハ長調 作品21 [1799年~1800年]
- ベートーベン:交響曲第2番 ニ長調 作品36 [1801年~1802年]
時間的に見れば相接しているように見えるのですが、ピアノ・ソナタで計測してみれば、この二つの交響曲の間には明らかに大きな飛躍が存在していることに気づかされます。
ベートーベンはこの第1番の交響曲を書き上げるまでに「悲愴ソナタ」を含む第10番までのピアノ・ソナタを書き上げていました。ピアノ・ソナタ全体のおよそ3分の1を占める10番までの初期ソナタは、ハイドンやモーツァルトが確立した18世紀のソナタを学んでそれを血肉化し、それをふまえた上で前に進もうと模索した時期でした。
そう言う模索の先に第1番の交響曲が生み出されたことは、ベートーベンという男の「歩み方」のようなものが暗示されているように思えます。
彼にとってピアノ・ソナタは常に新しい道を切り開くアイテムであり、そこで切り開いた結果を集大成するのが交響曲でした。
その意味では、この第1番の交響曲は18世紀の交響曲の集大成であり、その手本は明らかにハイドンだったのです。
しかし、その事は先人の業績をなぞっただけの作品になっていると言うことを意味するものではありません。そこには、ハイドンが長年の試行錯誤の中で確立した18世紀的な交響曲の手法をしっかりと自らのものとしながら、そこに何か新しいものを付け加えようとする意欲も垣間見ることが出来るのです。
それは、例えば第1楽章冒頭のちょっと不思議な印象が残る和音進行からして明らかです。そう言えば、カラヤンがこの冒頭部分は指揮者にとっては難しいみたいな事をどこかで語っていました。
続く、第2楽章では、どこか浪漫派を思わせるような叙情性を身にまとっていますし、何よりも続くメヌエット楽章の雰囲気はハイドン的な典雅さとは随分隔たっています。もっとも、それを「スケルツォ」とまでは言い切れないのでしょうが、それでもハイドンをなぞっているだけでないことは明らかです。
そして、最終楽章のアダージョの序奏はハイドン的な世界からはかなりへだっています。
しかしながら、音楽全体としてはやはりそれはハイドンの総決算です。
そして、この第1番の交響曲を書き上げた後に、さらに第11番から18番までのピアノ・ソナタを書き上げます。
しかし、それらのピアノ・ソナタは同一線上に存在するものではなくて、11番から15番までの作品群と、それ以後の作品31の16番から18番までの作品群に分かれます。
前者の作品群はそれ以前の初期ソナタの流れを引き継ぐものであり、それはウィーンでの人気ピアニストとしての腕を振るうために18世紀的ソナタを集大成たピアノ・ソナタでした。
ですから、それらは若き人気ピアニストの作品群と言えます。
しかし、それはやがて彼のわき上がるような創作意欲をおさめるものとしては、あまりにも小さく、そしてあまりにも古いものであることに気づかざるを得なくなります。
そして、その事に気づいたベートーベンは、未だ誰も踏み出したことがないような世界へと歩を進めていくのです。
それが、「私は今後新しい道を進むつもりだ」と明言して生み出された「テンペスト」を含む作品31のソナタだったのです。
交響曲2番は、まさにその様な新しい道へと踏み出した時期に生み出された音楽なのです。ですから、「初期の1番・2番」などとセットにして語ってはいけないのです。
交響曲の1番が18世紀の総括だとすれば、第2番は明らかに19世紀への新しい一歩を踏み出した音楽なのです。
そして、彼はピアノ・ソナタの分野ではこのすぐ後に「ワルトシュタイン」を生み出し、その後に、ついに音楽史上の奇蹟とも言うべき「エロイカ」が生み出されるのです。
聞いてみる価値は十分にある
スタインバーグは手兵のピッツバーグ交響楽団をともに1962年から1966年にかけてベートーベンの交響曲の全曲録音を行っています。さて問題は、その録音を聞いてみたいかどうかです。
50年代から60年代はクラシック音楽にとっては輝ける黄金の時代であり、多くの指揮者とオーケストラによって数多くのベートーベンの交響曲全集が録音されました。そう言う宝の山に埋もれている状態で、いわゆる職人肌による指揮者がピッチバーグというアメリカの地方オケを振って録音したベートーベンの9曲を時間をかけて聞いてみたいかということです。
率直にって、それほど簡単に「Yes」とは言いにくいのではないでしょうか。実際私も最初はそうでした。
そして、その証拠に、この録音はデジタルの時代に入ってもCDで復刻されることはなく、聞こうと思えば中古レコードを探すしかない状態が続きました。
ところが人間というのは不思議なもので、聞こうと思ってもなかなか聞くことができない状態で、何らかの僥倖に恵まれてそれを聞くことが出来た人はその録音と演奏を持ち上げたくなります。気がつくと、あちこちでこのスタインバー&ピッツバーグ響によるベートーベン演奏を「幻の名演」という人があらわれてきます。
ただし、その真偽を確かめることはほとんどの人にとっては不可能なのですから、いつの間にかそう言う評価がじわりじわりと広がりはじめます。そして、隣接権が消滅すると得体の知れないレーベルが板おこしと思われるやり方で復刻盤CDをリリースします。
聞くところによると、このレーベルは最初は国外では販売しないと言っていたようなのですが、やがてどういうルートを使ったのかは分かりませんが、少しずつ日本国内でも入手が可能になりました。そして、その噂の「幻の名盤」をその復刻盤CDで聞いた人たちは唖然とします。ただし、その「唖然」は演奏の巣らしさゆえに「唖然」としたのではなく、その復刻盤CDの音質が「唖然」とするほどの劣悪だったのです。
その悪さたるや、人によれば50年代初頭のフルトヴェングラーの音源よりも劣悪だと言うことでした。
しかしながら、「Command Classics」というマイナーレーベルでの録音とはいえ、60年代中頃のスタジオ録音がそこまで劣悪なことは考えられません。となると、その板おこしで復刻をしたレーベルはかなりいい加減なと言うよりは、犯罪的とも言えるやり方で復刻をしたと言うことになります。
しかしながら、最近になって遂にドイツ・グラモフォンが正式に復刻盤をリリースしたことで、漸くにして多くの人にその全貌が明らかになる時が来ました。
それでも、一部の「幻の名盤」という評価を聞きながらも、それでも残り少ない人生の中でこの組み合わせでベートーベンの9曲を聴く価値はあるのだろうかという懸念は消えません。
と言うことで、前置きが少し長くなってしまったのですが、そう言う懸念を振り払って9曲を聴き通した感想は、「幻の名盤」と言う評価は「聞きたくても聞けないのに聞けちゃった」というバイアスがかかった評価であったと言うことは間違いないと言うことです。しかし、残された人生において、このスタインバーグによるステレオ録音のベートーベンは聞いてみる価値は十分にあると言うこともまた間違いないようです。
まずは一通り聞いてみて感じたことを簡単に記しておきます。
第1番の交響曲はその弾むようなリズム感と爽快な推進力は若きベートーベンのファースト・シンフォニーとしては最高の演奏の一つと言えます。この第1番の交響曲はどうしても軽く見られがちなだけにこれは貴重な演奏と録音だと言えます。続く第2番も同じようなコンセプトで貫かれているのですが、この作品の聞かせどころとも言うべき「Larghetto楽章」がいささかあっさりしすぎている感じがします。
このラルゲット楽章の美しいロマン性は第1番の交響曲では聞くことが出来なかったものですし、そこには「歌う」事への試行錯誤が結実していると思われるだけに、ここまで意図的に素っ気なく演奏することはないのではないかとは思ってしまいました。
ただし、第4番の「Adagio楽章」もどちらかと言えば素っ気ない感じなので、そのあたりはスタインバーグの姿勢なのかもしれません。
しかし、第4番では長い序奏の後に第1主題が表れてくるところで思いっきり「タメ」を作って見得を切ったりしているのですから、そのあたりがただの「職人肌」とは言いきれないスタインバーグの複雑さが表れています。そして、第3楽書から第4楽章にかけてはあ青の第1番で見せた推進力とリズムが炸裂して、何処かカルロス・クライバーの姿を思い出してしまう自分がいました。
それからもう一つ面白いのは、突然テンポ設定が変わってしまう場面があることです。
例えば、第6番「田園」では嵐がやってくる前の場面で急激にテンポが速くなって緊張感を高めるのですが、いささかあざといという感じがしないでもありません。
それから、第7番の交響曲では最初の2楽章はやや遅めのテンポ設定で演奏して、第2楽章の「Allegretto」では2番や4番の緩徐楽章とは対照的なほどに入念に歌っています。どうも、このあたりがスタインバーグという男のつかみ所のなさです。そして、第3楽章からは途端にテンポを上げるのでそのつながり具合にいささか違和感を感じるのですが、そのテンポのまま最終楽章になだれ込むとその強い推進力ゆえに、「まあ、これでいいのだ」と思わせられてしまうのです。
それからもう一つ気づいたのは、第8番におけるオケの響きです。
後期の作品でありながら小ぶりなこの交響曲は下手をすると初期のシンフォニーのように聞こえてしまうのですが、スタインバーグはここでは明らかに低声部を分厚めにならしてどっしりとした雰囲気を醸し出しています。そう言えば、「田園」の第1楽章でも結構低声部を厚めに成らしているので、そのあたりのオケの響きにも彼なりのポリシーが貫かれていたのかもしれません。
つまりは、一見するとスタインバーグのベートーベンというのは職人肌の指揮者がキッチリと仕上げただけの演奏のように見えるのですが、じっくりと聞いてみるといろいろと屈折した部分があちこちにに顔を出すのです。
ただし、私の効き方が悪いのだと思うのですが「エロイカ」や「運命」のような大物ではあまり無茶なことはしないでキッチリと仕上げているように思われます。悪い演奏ではないのですが、数多の名演がひしめくこの作品の録音の中ではいささか自己主張が乏しいかもしれません。
しかしながら、スタインバーグの全集の中で一番注目すべきは最後の第9番でしょう。
何故ならば、そこでスタインバーグは一般的に「マーラー版」と呼ばれるものを使っているからです。
ただし、このマーラー版というのはマーラーが実際に演奏したときに楽譜に追加したり書き直したりしたもので、シューベルトの「死と乙女」を弦楽合奏版にしたように新たにスコアにしたものではないようです。そして、マーラーは演奏のたびにスコアに手を加えるのを常にしていましたから、ベートーベンの第9にしても定まった「マーラー版」があるわけではないようです。
ですから、スタインバーグが「マーラー版」と記しているのは、おそらくはマーラーがニューヨークフィル時代に、そのライブラリに書き込んだものを参考にしたものだと思われます。
ところが、この「マーラー版」による第9なのですが、実際に聞いてみると何処がどのように改変されているのかほとんど分かりません。どちらかと言えば、上で述べたような他の交響曲の独特な解釈の部分の方が印象的です。
ただし、最終楽章にはいると急に低声部が分厚くなって響きが太くなるのが印象的ですし、第2楽章のホルンのソロの部分からの音楽の運びが印象的なので、そのあたりに何らかのマーラーの手が入っているのかなと憶測する程度です。
ですから、スタインバーグはこの全集を完成させる上で、何故に、この第9番だけにその様なエディションを使ったのかの方が興味があります。
それはもしかしたら、職人肌で、手堅く作品をまとめるだけという印象をこのベートーベンの交響曲全集で払拭したかったのかもしれません。確かに、この全集を聞いてみれば、彼がただの職人肌だけの指揮者でないことはよく分かります。しかし、一部で囁かれるような「幻の名盤」はさすがに言いすぎのようです。
とは言え、この時代に数多くの優れたベートーベン演奏が生み出されたのですが、その中にあってもそれなりに聞く価値は十分にある録音であることは間違いようです。
なお、その後あれこれ調べてみると、第九のマーラー版の最大の特徴はスコアの細かい改変ではなくて、2管編成で書かれていたオリジナル編成を倍管にし、ティンパニを2人に増強し、さらに原曲に用いられていないテューバを加えるという「巨大化」を目指すことが目玉だった事が分かりました。
つまりは、その編成の巨大化を最大に活用することによって、ベートーベンの本質の一つである「デュナーミクの拡大」をより一層「壮絶」なものにしたかったようなのです。
私が第2楽章のホルンソロからの音楽運びに通常にはない美しさを感じたのはその成果だったようです。最終楽章に感じた分厚さもオケの巨大化によるものかもしれません。その証拠に、楽章の始めの部分ではオケと合唱・ソリストのバランスがあまり良くないのですが、次第にそのバランスが整っていくのがよく分かります。
そのあたり、録音エンジニアも苦労したようです。
とは言え、そういうマーラーの意図は、プリアンプのボリュームでいくらでも音量が調整できる録音ではなかなか実感するのは難しいかもしれません。