FLAC データベース>>>Top
モーツァルト:交響曲第21番 イ長調 K.134
シモン・ゴールドベルク指揮:ネーデルラント室内管弦楽団 1958年6月6~8日録音をダウンロード
- Mozart:Symphony No.21 in A major, K.134 [.Allegro]
- Mozart:Symphony No.21 in A major, K.134 [2.Andante]
- Mozart:Symphony No.21 in A major, K.134 [3.Menuetto]
- Mozart:Symphony No.21 in A major, K.134 [4.Allegro]
反宮廷的な素っ気なさ
モーツァルト:交響曲第21番 イ長調 K.134
モーツァルトはこの1772年の5月から8月にかけて6曲の交響曲をまとめて書いています。当時の習慣として6曲で一つのまとまった作品としようとしたのかと想像されます。しかし、残された手稿譜によると最初の2曲(K.128,K.129)と残りの4曲(これは19世紀に誰かの手によってまとめられた事が分かっています)が別々に綴じられていますから、その可能性は低いようです。そうなると、この時期に新作の交響曲を急遽必要とする何らかの事情があったのでしょう。
第1楽章は第1主題しか持たないという珍しい形になっていて、そのためか最後に長めのコーダを持ってきて補いをつけています。
続く第2楽章の「Andante」はグルックのオペラの中に登場するアリアとよく似た旋律で始まるそうです。しかし、歌うように始まったこの楽章は次第にやがて精緻な響きを持ったソナタ形式の楽章へと発展していきます。
続く「Menuetto」楽章でも、宮廷風の優雅さに溢れたトリオではなくて、どちらかと言えば素っ気ない「反宮廷」的な音楽に仕上げています。
そして、最終楽章でもロンド形式ではなくてソナタ形式という「重い」スタイルを採用しています。
全体として、華やかさをどこかで拒否してるような雰囲気が漂う作品であり、そのあたりにザルツブルグ宮廷の若きモーツァルトの反骨精神みたいなものをチラリと感じとるのは深読みに過ぎるでしょうか。
ザルツブルグにおける宮仕え時代の作品・・・ザルツブルグ交響曲
ミラノでのオペラの大成功を受けて意気揚々と引き上げてきたモーツァルトに思いもよらぬ事態が起こります。それは、宮廷の仕事をほったらかしにしてヨーロッパ中を演奏旅行するモーツァルト父子に好意的だった大司教のシュラッテンバッハが亡くなったのです。そして、それに変わってこの地の領主におさまったのがコロレードでした。コロレードは音楽には全く関心のない男であり、この変化は後のモーツァルトの人生を大きな影響を与えることになることは誰もがご存知のことでしょう。
それでも、コロレードは最初の頃はモーツァルト一家のその様な派手な振る舞いには露骨な干渉を加えなかったようで、72年10月には3回目のイタリア旅行、さらには翌年の7月から9月にはウィーン旅行に旅立っています。そして、この第2回と第3回のイタリア旅行のはざまで現在知られている範囲では8曲に上る交響曲を書き、さらに、イタリア旅行とウィーン旅行の間に4曲、さらにはウィーンから帰って5曲が書かれています。これら計17曲をザルツブルグ交響曲という呼び方でひとまとめにすることにそれほどの異論はないと思われます。
ザルツブルク(1772年)
- 交響曲第14番 イ長調 K.114
- 交響曲第15番 ト長調 K.124
- 交響曲第16番 ハ長調 K.128
- 交響曲第18番 ヘ長調 K.130
- 交響曲第17番 ト長調 K.129
- 交響曲第19番 変ホ長調 K.132
- 交響曲第20番 ニ長調 K.133
- 交響曲第21番 イ長調 K.134
K/128~K.130は5月にまとめて書かれ、さらにはK.132とK.133は7月に書かれ、その翌月にはK.134が書かれています。これらの6曲が短期間に集中して書かれたのは、新しい領主となったコロレードへのアピールであったとか、セット物として出版することを目的としたのではないかなど、様々な説が出されています。他にも、すでに予定済みであった3回目のイタリア旅行にそなえて、新しい交響曲を求められたときにすぐに提出できるようにとの準備のためだったという説も有力です。ただし、本当のところは誰も分かりません。
この一連の交響曲は基本的にはハイドンスタイルなのですが、所々に先祖返りのような保守的な作風が顔を出したと思えば(K.129の第1楽章が典型)、時には「first great symphony」と呼ばれるK.130の交響曲のようにフルート2本とホルン4本を用いて、今までにないような規模の大きな作品を仕上げるというような飛躍が見られたりしています。
アインシュタインはこの時期のモーツァルトを「年とともに増大するのは深化の徴候、楽器の役割がより大きな自由と個性に向かって変化していくという徴候、装飾的なものからカンタービレなものへの変化の徴候、いっそう洗練された模倣技術の徴候である」と述べています。
ザルツブルク(1773~1774年)
- 交響曲第22番 ハ長調 K.162
- 交響曲第23番 ニ長調 K.181
- 交響曲第24番 変ロ長調 K.182
- 交響曲第25番 ト短調 K.183
- 交響曲第27番 ト長調 K.199
- 交響曲第26番 変ホ長調 K.184
- 交響曲第28番 ハ長調 K.200
- 交響曲第29番 イ長調 K.201
- 交響曲第30番 ニ長調 K.202
アインシュタインは「1773年に大転回がおこる」と述べています。
1773年に書かれた交響曲はナンバーで言えば23番から29番にいたる7曲です。このうち、23・24・27番、さらには26番は明らかにオペラを意識した「序曲」であり、以前のイタリア風の雰囲気を色濃く残したものとなっています。
しかし、残りの3曲は、「それらは、---初期の段階において、狭い枠の中のものであるが---、1788年の最後の三大シンフォニーと同等の完成度を示す」とアインシュタインは言い切っています。
K.200のハ長調シンフォニーに関しては「緩徐楽章は持続的であってすでにアダージョへの途上にあり、・・・メヌエットはもはや間奏曲や挿入物ではない」と評しています。そして、K.183とK.201の2つの交響曲については「両シンフォニーの大小の奇跡は、近代になってやっと正しく評価されるようになった。」と述べています。
そして、「イタリア風シンフォニーから、なんと無限に遠く隔たってしまったことか!」と絶賛しています。この絶賛に異議を唱える人は誰もいないでしょう。
時におこるモーツァルトの「飛躍」がシンフォニーの領域でもおこったのです。そして、モーツァルトの「天才」とは、9才で交響曲を書いたという「早熟」の中ではなく、この「飛躍」の中にこそ存在するのです。
パリ旅行からザルツブルグとの訣別、そしてウィーン時代の作品・・・後期交響曲
「飛躍」を成し遂げたモーツァルトは、交響曲を「連作」することは不可能になります。
「モーツァルトの胸中には、シンフォニー的なものの新しい概念が発展したからである。この概念は、もはや「連作」作曲を許さず、単独作品の作曲だけを可能にするのである」(アインシュタイン)
モーツァルトは73年から74年にかけての多産の時期を過ぎると交響曲に関してはぴたりと筆が止まります。それは基本的には領主であったコロレードがモーツァルトの演奏旅行を「乞食のように歩き回っている」として制限をかけたことが一番の理由ですが、内面的には上述したような事情もあったものと思われます。
そんなモーツァルトが再び交響曲を書き出すのは、日々強まるコロレードからの圧力を逃れるための「就職先探し」の旅が契機となります。
モーツァルトとコロレードの不仲は1777年に臨界点に達し、ついにクビになってしまいます。そして、モーツァルトはこのクビを幸いとして就職先探しのための旅に出かけます。
しかし、現実は厳しく、かつては「神童モーツァルト」としてもてはやした各地の宮廷も、ザルツブルグの大司教に遠慮したこともあって体よく就職を断られていきます。期待をしたミュンヘンもマンハイムも断られ、最後の望みであったパリにおいても神童であったモーツァルトには興味は持ってくれても、大人の音楽家となったモーツァルトには誰も見向きもしてくれませんでした。そして、その旅の途中で母を亡くすという最悪の事態を迎え、ついにはコロレードに詫びを入れて復職するという屈辱を味わうことになります。
しかし、この困難の中において、モーツァルトは己を売り出すためにいくつかの交響曲を書きます。
パリ・ザルツブルグ(1778年~1780年)
- 交響曲第31番 ニ長調 "Paris" K.297
- 交響曲第32番 ト長調 K.318
- 交響曲第33番 変ロ長調 K.319
- 交響曲第34番 ハ長調 K.338
通称「パリシンフォニー」と呼ばれるK.297のシンフォニーは典型的な2管編成の作品で、モーツァルトの交響曲の中では最も規模の大きな作品となっています。それは、当時のパリにおけるオーケストラの編成を前提としたものであり、冒頭の壮大なユニゾンもオケの力量をまず初めに誇示するために当時のパリでは常套手段のようにもいられていた手法です。
また、この作品を依頼した支配人から転調が多すぎて長すぎると「ダメ出し」がだされると、それにしたがって第2楽章を書き直したりもしています。
何とかパリの聴衆に気に入られて新しい就職先を得ようとするモーツァルトの涙ぐましい努力がかいまみられる作品です。
しかし、その努力は報いられることはなく、下げたくない頭を下げてザルツブルグに帰って教会オルガニストをつとめた79年から80年にかけての2年間は、モーツァルトの生涯においても精神的に最も苦しかった時代だと言えます。
その証拠に、モーツァルトの生涯においてもこの2年間は最も実りが少ない2年間となっています。
そのため、この2年間に書かれた32番から34番までの3曲は再び「序曲風」の衣装をまとうことになります。おそらくは、演奏会などを開けるような状態になかったことを考えれば、これらの作品はおそらくどこかの劇団からの依頼によって書かれたものと想像されています。
底に流れる「風格」のようなものを感じとってほしい
以前に指揮者としてのゴールドベルクを紹介したときに、「意外と知られていない指揮者としての活動」と書いたのですが、考えてみれば山根美代子と再婚して日本に居を移してからは新日本フィルハーモニー交響楽団の指揮活動を行っていたのですから、日本では指揮者としての「ゴールドベルク」はそれなりに認識されていたのかもしれません。しかしながら、彼の指揮者としての活動の原点はやはり「ネーデルラント室内管弦楽団(オランダ室内管弦楽団)」です。そして、その本領が一番発揮されたのはバッハ演奏だったというのが世間一般の評価らしいです。
確かに、彼のブランデンブルグ協奏曲は「峻厳さだけでないバッハ」の姿を十分すぎるほどに説得力を持って描き出していましたから、その世評は間違いではありません。
しかしながら、数は少ないですが、バッハ以外の録音にも地味ではあるものの優れた演奏を多く残してくれました。残念なのは、ゴールドベルクとネーデルラント室内管弦楽団との結びつきは20年を超えるほどに長いものだったにもかかわらず、その録音はあまり多くは残されていないようなのです。
そんな中で今私の手もとには以下の4つのモーツァルト作品の録音があります。
- モーツァルト:セレナード第13番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」K.525
- モーツァルト:交響曲第5番 変ロ長調 in B flat K.22
- モーツァルト:交響曲第21番 イ長調 K.134
- モーツァルト:交響曲第29番 イ長調 K.201 (186a)
「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」はメジャーな作品ですが、それ以外はモーツァルトの交響曲の中でもマイナーな作品です。とりわけ、第5番と第21番はかなりマイナーな作品です。
ゴールドベルクが何故にこのような選曲を行って録音活動を行ったのかは分かりませんが、いわゆる後期の交響曲のようなメジャー作品ではお呼びがかからなかったのかもしれません。
しかしながら、これらの残された録音を聞いてみると、これが実にいい感じの音楽に仕上がっているのです。
基本的に室内管弦楽団ですから、最初からベームやヨッフムのような重量級のモーツァルトになるはずはないことは分かっています。しかし、そのまろやかな響きはモーツァルト的な愉悦感に満ちていて、その底には不思議な風格のようなものが備わっているのです。それは、少年時代のホンのちょっとした小品である第5番の交響曲においても同様です。
この「風格」のようなものって、意外と感じ取れる演奏は少ないのです。言うまでもないことですが、いわゆるピリオド演奏などと言うものに根本的に欠けているのがこの「風格」のようなものです。
そして、考えてみれば、彼はモーツァルトという作曲家が「子供向けの可愛い音楽をたくさん書いた人」としか認識されていなかった戦前において、すでにリリー・クラウスとのコンビで素晴らしいヴァイオリン・ソナタの録音を残していた人なのです。
彼は、モーツァルトという音楽家の真価を早い時期から知り尽くしていた数少ない優れた音楽家の一人でした。それは、あのブラームスが「ほんとうに素晴らしい音楽というものはモーツァルトの音楽のようなものなのだが、幸いにしてほとんどの人がその事を知らないので、私たちのようなものでも作曲家として生きていくことが出来る」と語ったことと肩を並べられるほどのことだったのかもしれません。
ですから、彼のモーツァルトは誰の物まねでもない、彼自身の内面から深く共感した音楽として表現されているのです。
それは、超マイナーな作品ほど、その本領が発揮してくれているように感じます。もちろん、メジャーな「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」や、そこそこ知名度のある29番の交響曲(K.201)においても悪い演奏であるはずはないのです。ただし、そのあたりになるとライバルが多いですね。(^^;
何気に聞き流してしまうと、何とも気持ちよく音楽が流れていくように見えるのですが、その底に流れる「風格」のようなものを感じとってくれると嬉しいです。