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ショーソン:詩曲 作品25
(Vn)ナタン・ミルシテイン:アナトール・フィストゥラーリ指揮 フィルハーモニア管弦楽団 1963年4月1日&3日~4日録音をダウンロード
世紀末を反映した音楽
ショーソンは若くして(44歳)不慮の事故(一部では自殺説もあるそうです)で亡くなったために、日本での認知度はあまり高くないようです。
そんな中で、唯一知れ渡っているのがこの「詩曲」です。
しかし、神秘的に静かに始まって、そしてあまりおおきな盛り上がりも見せずに最後も静かに曲を閉じるこの作品は、それほど一般受けする作品とも言えません。
ショーソンは表面的には非常に恵まれた環境のもとでその人生を送ったかのように見えます。
幼い頃から優れた家庭教師によって英才教育を施され、幸せな結婚と裕福な家庭生活を築き上げると言う、ヨーロッパにおける典型的な中産階級の一員でした。
しかし、そんな表面的な豊かさとは裏腹に、彼の作品からは、その内面に巣くっているどうしようもないペシミズムが見え隠れします。
この「詩曲」の全編を覆っている夢も、儚さだけでなく、何だかゾッとするような情念があちこちで姿を見せます。それは疑いもなく、世紀末ヨーロッパを蔽っていた、とらえ所のない漠然とした焦燥感や苛立ちのようなものが反映しています。
最初はツルゲーネフの「勝ち誇れる恋の歌」に触発されて書き始められたものの、やがてはその標題性を破棄して、ただ単に「詩曲」とされたのは、狭い文学世界のテーマを乗り越えて、その様な時代の風を反映したより普遍性の高い作品になった事への自負もあったのでしょう。
言葉の最も正しい意味での「スタンダード」な演奏
随分前に、フランチェスカッティによるサン=サーンスのヴァイオリン協奏曲第3番を取り上げたときに、その比較対象としてミルシテインの録音に言及しました。ところが、ある方から、その比較対象であるミルシテインの録音がアップされていないことを指摘されました。
「あれっ?そんなのとっくの昔にアップしているだろう」と思ったのですが、調べてみると確かにアップされていませんでした。
そして、気がつきました。
フランチェスカッティの録音を紹介したときは、ミルシテインの録音はまだパブリック・ドメインになっていなかったのです。ですから、パブリック・ドメインになった時点でアップしておこうと思ったのですが、時間がたてばそんな事は忘れてしまうもののようです。
そして、もう一つ気づいたのは、最近、この偉大なヴァイオリニストであるミルシテインの演奏をほとんど取り上げていないという事実です。
これは、私がミルシテインを決して軽視しているわけではなくて、1950年代と60年代という時代は、クラシック音楽の世界においては取り上げるべき演奏と録音が溢れていると言うことなのです。
ただし、その事に気づかせてくれたご指摘でしたので、この1週間ほどはミルシテインの録音をかなり集中して聞いています。
そして、あらためてミルシテインというヴァイオリニストが聞き手に迎合する名人芸というものからいかに距離をおいた人物であったかと言うことを思い知らされました。
ミルシテインと言えばアウアーのロシア時代の最後の弟子であり、ハイフェッツの同門と言うことがよく言われます。そして、二人ともにロシア革命のために故国を離れてアメリカを生活と演奏活動の拠点とするのですが、もしかしたらミルシテインほどハイフェッツの影響を被らなかったヴァイオリニストはいないのではないかと思います。
もちろんハイフェッツの名人芸は見事なもので、それでいて聞き手に迎合したものでない厳しさも合わせ持った希有のヴァイオリニストでした。しかし、ミルシテインはそう言うタイプの音楽を最初から全く指向していませんでした。
そう言う背景には彼の師であったたアウアーの指導法が大きな影響を与えていることは間違いありません。アウアーは上から技術や解釈を押しつけるのではなく、音楽そのものについて考えさせ、それに基づいて技術的な困難を自らの力で乗りこえさせようとしました。
その結果として、ハイフェッツはハイフェッツになり、ミルシテインはミルシテインとなったのです。
ミルシテインのテクニックは万全なものであり、それは晩年でほとんど衰えることはありませんでした。しかし、彼はそのテクニックを自らが考える理想の音楽の形を実現するための手段としてのみ活用しました。
おそらく、彼の頭の中には、どの作品においても理想とする響きが確固として存在していたはずです。
頭の中で理想とする素晴らしい響きが鳴っていなければ、現実のヴァイオリンからその様な美しい響きが出せるはずがありません。ミルシテインの素晴らしい歌心と美音は、まさにその様な音楽が彼の頭の中で確固として鳴り響いていて、その理想を最後まで追い続けて結果なのです。
良く「スタンダード」という言葉が使われますが、ミルシテインの演奏こそは言葉の最も正しい意味での「スタンダード」な音楽を目指したものでした。
そして、それはサン=サーンスの「ヴァイオリン協奏曲第3番」にしても「序奏とロンド・カプリチオーソ」においてもその考えは徹底されています。
しかしながら、この世界不思議なもので、片方にそう言うヴァイオリニストがいるからこそ、もう片方でフランチェスカッティのような粋なヴァイオリニストも映えるのですし、ハイフェッツの凄みにも息を呑むのです。
全く持って、クラシック音楽というのは「贅沢な世界」だと言うしかありません。
それから、もう一つ次いでみたいな付け足しで申し訳ないのですが、同時に聞いてみたショーソンの「詩曲」も見後なまでに「スタンダード」な演奏です。
こういう真っ当な(^^;演奏があるからこそ、例えばヌヴォーの狂気に近い凄みの価値も分かろうかというものなのです。