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モーツァルト:ピアノ協奏曲第27番変ロ長調, K.595


(P)エリック・ハイドシェック:アンドレ・ヴァンデルノート パリ音楽院管弦楽団 1961年9月5日~7日録音をダウンロード

  1. Mozart:Concerto No.27 In B-flat Major For Piano And Orchestra, K.595 [1.Allegro]
  2. Mozart:Concerto No.27 In B-flat Major For Piano And Orchestra, K.595 [2.Larghetto]
  3. Mozart:Concerto No.27 In B-flat Major For Piano And Orchestra, K.595 [3.Allegro]

新しい次の一歩を模索していた



モーツァルト:ピアノ協奏曲第27番変ロ長調 , K.595
モーツァルトはピアニストとしてもう一旗揚げようとして、ある意味では当時の聞き手の趣味嗜好に迎合したと言われても仕方のない作品(戴冠式)をひっさげてフランクフルトに向かいます。しかし、多額の借金をしてまで向かったハンブルグでの演奏会は思うような結果を残せず、結果としては借金だけが残り、それをもってピアニストとしてのモーツァルトの活動は実質的に終わりを告げます。

ところが、その1年後に何故かポツンと1曲のピアノ協奏曲が生み出されます。
それは、クラリネット奏者であったヨーゼフ・ベーアが開いた演奏会でモーツァルト自身が演奏するための作品だったようです。想像の域を出ませんが、おそらくは「お金」になる仕事と言うことで引き受けたのでしょうが、それでもそのおかげでこの奇蹟のような作品が生まれたのですから神に感謝するしかありません。

とは言え、その演奏会は旅籠の広間で行われたものだったので規模は小さなものだったでしょう。そして、面白いのはその演奏会にアロイージアが歌手として参加していたことです。アロイージアは言うまでもなく妻コンスタンツェの姉であり、モーツァルトにとっては最初の恋人だった女性です。
あまり想像をたくましくしても仕方がありませんが、モーツァルトにはそれなりにいろいろな感情が交錯したことでしょう。
そして、この作品もまた誰の手に渡す必要もなく、自分自身が演奏するだけの作品だったので表記は極めて簡略化されたものになっています。それだけに、この作品を楽譜通り演奏すべきかどうかと言うことには難しい問題をはらんでいます。

なお、注目すべきはモーツァルトが残した「全作品目録」を見てみると、この協奏曲の次に歌曲「春への憧れ, K.596」が記入されていることです。この歌曲の旋律はこの協奏曲のフィナーレの主題にもなっています。
来ておくれ、なつかしい五月よ、
来て樹々をふたたび緑にしておくれ、
そしてぼくのために、小川のほとりに
かわいいすみれを咲かせておくれ!
 
どんなにかぼくはすみれの花を
もう一度見たがっていることだろう、
ああ、なつかしい五月よ、どんなにか
ぼくは散歩に出かけたいことだろう!

確かに、モーツァルトにとってはこれが最後の春になってしまったわけであり、アインシュタインも「これが最後の春だということを自覚した、諦念の明朗さである」と述べています。しかし、私にはそれはあくまでも結果論であり、おそらく彼は人生には絶望はしておらず、何とか新しい次の一歩を模索していたのではないかと考えてしまうのです。

決して彼は自らの死は予感していなかったはずです。

最後に残された孤独な2作品


モーツァルトのウィーン時代は大変な浮き沈みを経験します。そして、ピアノ協奏曲という彼にとっての最大の「売り」であるジャンルは、そのような浮き沈みを最も顕著に示すものとなりました。その浮き沈みの最後にポツンと2つの作品が残されることになります。
この2作品はどのグループにも属さない孤独な2作品です。

  1. ピアノ協奏曲第26番 ニ長調「戴冠式」 K537:1778年2月24日完成

  2. ピアノ協奏曲第27番 変ロ長調 K595:1791年1月5日完成


この時代のモーツァルトは演奏会を行っても客が集まらず困窮の度合いを深めていくと言われてきました。しかし、これもまた最近の研究によると少しばかり事情が異なることが分かってきました。
たとえば、有名な39番~41番の3大交響曲も従来は演奏されるあてもなく作曲されたと言われてきましたが、現在でははっきりとした資料は残っていないものの何らかの形で演奏されたのではないかと言われています。確かに、予約演奏会という形ではその名簿に名前を連ねてくれる人はいなくなったのですが、当時の演奏会記録を丹念に調べてみると、依然としてウィーンにおけるモーツァルトの人気は高かったことが伺えます。

ですから、人気が絶頂にあった時代と比べれば収入は落ち込んだでしょうが、世間一般の常識とくらべれば十分すぎるほどの収入があったことが最近になって分かってきました。
この時代にモーツァルトはフリーメイソンの盟友であるプフベルグ宛に泣きたくなるような借金の依頼を繰り返していますが、それは従来言われたような困窮の反映ではなく、生活のレベルを落とすことのできないモーツァルト一家の支出の多さの反映と見るべきもののようです。

ですから、26番の「戴冠式」と題された協奏曲もウィーンでだめならフランクフルトで一旗揚げてやろうという山っ気たっぷりの作品と見るべきもののようです。借金をしてまでフランクフルトで演奏会をおこなったのは悲壮な決意で乗り込んだと言うよりは、もう少し脂ぎった思惑があったと見る方が現実に近いのかもしれません。
そして、己の将来を切り開くべく繰り出した作品なのですから、モーツァルトとしてもそれなりに自信のあった作品だと見ていいでしょう。ですから、ここでは、一度開ききった断絶が再び閉じようとしているように見えます。

しかし、残念ながらこの演奏会はモーツァルトが期待したような結果をもたらしてくれませんでした。そして、人気ピアニストとしてのモーツァルトの活動はこれを持って事実上終わりを告げます。
ロマン派の音楽家ならば演奏されるあてがなくても己の感興の赴くままに作曲はするでしょうが、モーツァルトの場合はピアニストとしての活動が終わりを告げれば協奏曲が創作されなくなるのは理の当然ですから、この後にモーツァルトは再び交響曲に戻っていくことになり、39番からの最後の3大交響曲を残すことになるわけです。

そんなモーツァルトが死の1年前の1791年に突然一つのピアノ協奏曲を残します。
K.595の変ロ長調の協奏曲です。

作品はその年の1月に完成され、3月4日のクラリネット奏者ヨーゼフ・ベーアが主催する演奏会で演奏されました。そして、それがモーツァルトのコンサートピアニストとしての最後の舞台となりました。
アインシュタインはこの作品について「この曲は・・・永遠への戸口に立っている。」「彼がその最後の言葉を述べたのはレクイエムにおいてではなく、この作品においてである。」と述べています。

しかし、これもまた最近の研究により、この作品の素材が1778年頃にほとんどできあがっていたことを示唆するようになり、アインシュタインの言葉はその根拠を失おうとしています。
実際、この時代のモーツァルトは交響曲作家としてイギリスに渡る道があったにもかかわらずそれを断り、ドイツ語によるドイツオペラの創作という夢に向かって進み始めていたのです。ですから、アインシュタインのようなモーツァルト理解は幾分かはロマン主義が支配した19世紀的バイアスがかかったものとしてみておく必要があるようです。

ただし、コンサートピアニストとしての活動が終わったことは自覚していたでしょうから、その意味ではこれは「訣別」の曲と言っても間違いないのかもしれません。
しかし、はたしてアインシュタインが言ったようにその「訣別」が「人生への訣別」だったのかは議論の分かれるところでしょう。

二人の音楽性が見事に一致したモーツァルト

ハイドシェックの名前が世間に知られるようになったのはこのモーツァルトのコンチェルトの録音によってでしょう。
この録音はハイドシェックのピアノも素晴らしいのですが、それと同じくらいヴァンデルノートの指揮が素晴らしいのです。後の世代から俯瞰してみれば、ヴァンデルノートの才能は1957年にパリ音楽院管弦楽団を指揮して録音したモーツァルトの交響曲によってすでに明らかでした。
しかし、その録音は世の中がすでにステレオ録音へと移行しつつある中でモノラルによって録音されたものだったので、それほど多くのの人の目に触れることがなかったようです。

そして、このコンチェルトの録音に関しても、1958年に録音された21番と24番の2曲もまた、信じがたいことにモノラルでしか録音されていませんでした。しかし、さすがに60年以降に録音された残りの4曲はステレオによって録音されていたので、それらは一躍世間の注目を集めるようになりました。そして、その事をきっかっけにしてヴァンデルノートの交響曲録音も一部の好事家から注目されるようになりました。
そのヴァンデルノートの録音に関してはすでに紹介してあるのですが、そこで感じたのは「これは30歳の若者にしか作れなかった音楽だな」という感想でした。

その録音は、ボンヤリと聞いていると一見何もしていないように聞こえなくもありません。しかし、その何もしていないように見えながらも、そこからは若者でしか為しえない、ほとばしるうな生命観に満ちあふれている事に気づかされたものでした。
演奏の基本的なスタンスは、この時代を席巻していたザッハリヒカイトな音楽作りといえるのでしょうが、その音楽からはザッハリヒカイトという言葉から連想される素っ気なさや硬直した雰囲気などは微塵も存在しません。

石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも
そんな万葉の歌が思い起こされるような音楽でした。
そして、そう言う音楽の方向性はまさにハイドシェックの音楽性と見事にマッチしたのでした。

とりわけ、25番のコンチェルトは、まるでベートーベンの初期のコンチェルトを聞いているような錯覚に陥ります。そのダイナミックな音楽の迸りはある意味ではモーツァルトらしくはないのかもしれませんが、聞いてワクワクさせられることは間違いありません。
そして、この一連の録音によってハイドシェックは「モーツァルト弾き」として認識されることになったらしいのですが、彼のピアノは正直言ってモーツァルトが持っている柔らかさよりは、ベートーベン的な直進性が持ち味のように聞こえます。そして、それがヴァンデルノートのの指揮と相まって、1960年に録音されたK.466のニ短調コンチェルトやK.488のイ長調コンチェルトなどは、溢れんばかりの推進力と生命力に溢れています。

こういうハイドシェックのピアノを聞けば、おそらく彼はこの後にベートーベンの世界に踏み込んで行くであろう事は容易に想像がつきますし、現実もその通りになりました。ただし、彼が1967年から開始したベートーベンのソナタ全曲録音は全てパブリック・ドメインとなる前にそこからこぼれ落ちてしまいました。
かえすがえすも残念なことでした。

ちなみに、音楽の方向性はモノラルで1958年に録音されたK.467のハ長調コンチェルトやK.491のハ短調コンチェルトに関しても同じです。
ただし、その二つはモノラルとしても録音のクオリティが良くないのが些か残念です。とりわけ、マスターテープの劣化が原因かと思うのですが、曲の冒頭が実に窮屈な音になってしまっています。しかし、演奏が進むにつれてモノラル最終期に相応しい音質へと回復していきますので、取りあえずは最後までお付き合いしてやってください。

それから、最後になりますが、モーツァルトの最後のピアノ・コンチェルトとなったK.595のコンチェルトはアプローチがそれ以外の5曲とは少し異なっています。
確かに、この簡潔きわまるコンチェルトを今までのようにスッキリと直線的に演奏したのではその透明感に溢れた世界を壊してしまいます。そして、その事はハイドシェックもヴァンデルノートも十分に心得ていたでしょう。そこでは、直線的な推進力は影をひそめ、作品に溢れ津透明感に溢れた悲しみをこの上もなく丁寧にすくい取るように、ニュアンス豊かに歌っていきます。

その意味では、1961年に録音された最後の2曲はそれまでの4曲よりはいろいろな意味で一歩も二歩も踏み込んだ演奏になっているようです。

なお、余談ながら、ヴァンデルノートはこの後にシカゴ交響楽団を指揮してアメリカデビューも果たし、彼のことをクリュイタンスの後継者と見なす人も多くなるのですが、何故かそのすぐ後にベルギー国内のブラバンド管弦楽団というマイナーなオケの首席指揮者に就任して、実質的にドロップ・アウトしてしまいます。おそらく、ペーター・マークと同じように飛行機で飛び回って演奏会場とホテルを行き来するだけの生活に嫌気がさしたのでしょう。
しかし、マークはそう言うマイナーオケで自分の好きな音楽をやりながら、晩年にいたって多くの人を驚嘆させるような音楽を生み出したのですが、ヴァンデルノートはそれほどの音楽を生み出すこともなくフェード・アウトしてしまいました。

そして、ハイドシェックなのですが、彼は2018年にも来日して各地でコンサートを行って多くの人に感銘を与えたようです。(私は実際に聞いていないのであくまでも伝聞です)
そして、亡くなったというニュースにも接していないので今も元気に活動しているのでしょうか。
もしも今も現役だとすれば、84歳ですから、それは不可能なことではありません。

ですから、この偉大なピアニストの業績をパブリック・ドメインで追えるのはごく初期の活動だけとなるのですが、それでも少なくない録音がパブリック・ドメインとなっていたことは有り難い話です。