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ヨハン・シュトラウス II:ワルツ「酒、女、歌」, Op.333
ユージン・オーマンディ指揮 フィラデルフィア管弦楽団 1961年12月28日録音をダウンロード
社交の音楽から芸術作品へ
父は音楽家のヨハン・シュトラウスで、音楽家の厳しさを知る彼は、息子が音楽家になることを強く反対したことは有名なエピソードです。そして、そんなシュトラウスにこっそりと音楽の勉強が出来るように手助けをしたのが母のアンナだと言われています。後年、彼が作曲したアンネンポルカはそんな母に対する感謝と愛情の表れでした。
やがて、父も彼が音楽家となることを渋々認めるのですが、彼が1844年からは15人からなる自らの楽団を組織して好評を博するようになると父の楽団と競合するようになり再び不和となります。しかし、それも46年には和解し、さらに49年の父の死後は二つの楽団を合併させてヨーロッパ各地へ演奏活動を展開するようになる。
彼の膨大なワルツやポルカはその様な演奏活動の中で生み出されたものでした。そんな彼におくられた称号が「ワルツ王」です。
たんなる社交場の音楽にしかすぎなかったワルツを、素晴らしい表現力を兼ね備えた音楽へと成長させた功績は偉大なものがあります。
ワルツ「酒、女、歌」, Op.333
「酒と女と歌を愛さぬ者は、生涯馬鹿で終わる」という言葉で有名な詩はマルティン・ルターの格言だと言われて来ました。しかし、マルティン・ルターの著作の中にそのような記述を見つけることは出来ず、おそらくは18世紀のジョセフ・ベルの手になる詩であると考えられています。
ただし、その作品には先行する詩があって、それは17世紀のヨハン・クリストフ・ローバーの「音楽の歌を軽蔑する人 彼は一生馬鹿になるだろう」と言われています。
つまりは、シュトラウスが生きたオーストリアでは良く耳にする表現だったようです。
それにしても、この歌詞は爛熟期をむかえつつあったオーストリア帝国の気分にピッタリのものだったのでしょう。
そして、ウィーン男声合唱団のために作曲した9つの合唱作品の1つが「酒、女、歌」だったのですが、この作品がとりわけ多くの聴衆に受け入れられました。
1869年2月2日の「仮装音楽会」で初演されて大成功を収め、巡礼者の仮装をしていたシュトラウス2世と妻は歓呼に応えるために何度も立ち上がってお辞儀をしなければならなかったと伝えられています。そして、一部の批評家もそれが「美しき青きドナウ」と同じくらいの人気作品になるだろうと褒め讃えたそうです。
合唱版は「天にまします神様が、いきなりブドウの若枝を生えさせた」という歌詞から始まり、第1ワルツで「さあ注げ、それ注げ……フランケン・ワインをたっぷり注げよ、なければ愛しのオーストリア産」と歌いあげる[2]。のちにオーケストラ版に改められ、3月16日にハンガリー王国の首都ペシュトでシュトラウス楽団によって披露された
また、ヨハン・シュトラウスの友人であったブラームスもこの作品がとりわけお気に入りだったようで、このワルツを彼の弦楽四重奏曲(Op.51)の中で引用しているほどです。
そして、この「酒、女、歌」はのちにオーケストラ版に改められ、3月16日にハンガリー王国の首都ブダペストでシュトラウス楽団によって披露されて、それもまた大成功をおさめ、今ではその管弦楽版の方が一般的になっています。
シュトラウス2世の作品の中では並はずれて長い導入部をもっているのが異例の作品で、その長大な序奏が全体の半分近くを占めていました。しかし、さすがに長すぎると考える指揮者が多かったようで、実際は大部分をカットして序奏末尾のマーチ部分から演奏されることが多いようです。
端正であると同時に豊満
オーマンディがどうしても低く見られる要因として「オペラ」を指揮しなかったと言うことがあります。実はミンシュもほぼ同様で、彼もまた「オペラ」との縁は非常に少なかった指揮者でした。そして、アメリカではまだしも、ヨーロッパではその事は決定的な「弱点」と見なされました。
ただし、ミンシュはそう言うことは殆ど気にしていなかったようです。
それに対して、オーマンディの方はその事に多少の引け目を感じていたのか、唯一、ヨハン・シュトラウスの「こうもり」だけを録音しています。そして、それを「ヨハン・シュトラウスの理想的指揮者」と鼻であしらったのがストラヴィンスキーでした。
しかしながら、そんな風に馬鹿にされながらも、彼が鬼のトレーニングで築き上げた「フィラデルフィア・サウンド」は唯一無二の魅力を持っていました。
例えばリヒャルト・シュトラウスの「薔薇の騎士」組曲を聴いてみれば、それはまさに「薔薇の騎士」のダイジェスト版になっているだけでなく、その響きの豊麗さは誰にも真似の出来ない優れものでした。
ですから、そんなオーマンディが手兵のフィラデルフィア管の豊饒な響きを最大限にフル活用してヨハン・シュトラウスのワルツやポルカを演奏すればどんな音楽になるのかは概ね予想はつきます。
そして、現実はその予想をはるかに上回る面白さと美しさに満ちた音楽を聞かせてくれています。
まず最初に断っておかなければいけないのは、ここには「ウィーンの粋」はありません。基本的にワルツはワルツとしてきちんと3拍子で構成されていますし、ポルカはポルカらしく力強い推進力が強調されています。
つまりは、ウィンナー・ワルツという「伝統」からは自由になって、それらの作品を純粋器楽として端正に構築しているのです。その点ではセル&クリーブランド管によるシュトラウス演奏と方向性は同じです。しかし、セルになくてオーマンディにあったのはフィラデルフィア管の豊麗なサウンドです。
そう言えば、セルのウィンナー・ワルツをまるで士官学校での舞踏会みたいだと書いた事があるのですが、ここにはその様な禁欲的な雰囲気は全くありません。その音楽は端正であると同時に豊満でもあります。
そして、こういう表現というのは、簡単にやれるように見えて意外と難しいものであることに気づかされます。
そして、これが誉め言葉になるのかどうかは分かりませんが、「オーケストラの休日」でも感じたように、こういう小品を扱わせたときのオーマンディの上手さは抜きんでています。