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ドヴォルザーク:交響曲第9番 ホ短調 作品95(B.178)「新世界より」


ヤッシャ・ホーレンシュタイン指揮 ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団 1962年1月録音をダウンロード

  1. Dvorak:Symphony No.9 in E minor, Op.95 "From the New World" [1.Adagio - Allegro molto]
  2. Dvorak:Symphony No.9 in E minor, Op.95 "From the New World" [2.Largo]
  3. Dvorak:Symphony No.9 in E minor, Op.95 "From the New World" [3.Molto vivace]
  4. Dvorak:Symphony No.9 in E minor, Op.95 "From the New World" [4.Allegro con fuoco]

ボヘミアの郷愁を歌った音楽であると同時にアメリカの息吹に触れることによってのみ生まれた作品である



ドヴォルザークが、ニューヨーク国民音楽院院長としてアメリカ滞在中に作曲した作品で、「新世界より」の副題がドヴォルザーク自身によって添えられています。

ドヴォルザークがニューヨークに招かれる経緯についてはどこかで書いたつもりになっていたのですが、どうやら一度もふれていなかったようです。ただし、あまりにも有名な話なので今さら繰り返す必要はないでしょう。
しかし、次のように書いた部分に関しては、もう少し補足しておいた方が親切かもしれません。

この作品はその副題が示すように、新世界、つまりアメリカから彼のふるさとであるボヘミアにあてて書かれた「望郷の歌」です。

この作品についてドヴォルザークは次のように語っています。
「もしアメリカを訪ねなかったとしたら、こうした作品は書けなかっただろう。」
「この曲はボヘミアの郷愁を歌った音楽であると同時にアメリカの息吹に触れることによってのみ生まれた作品である」


この「新世界より」はアメリカ時代のドヴォルザークの最初の大作です。それ故に、そこにはカルチャー・ショックとも言うべき彼のアメリカ体験が様々な形で盛り込まれているが故に「もしアメリカを訪ねなかったとしたら、こうした作品は書けなかっただろう」という言葉につながっているのです。

それでは、その「アメリカ体験」とはどのようなものだったでしょうか。
まず最初に指摘されるのは、人種差別のない音楽院であったが故に自然と接することが出来た黒人やアメリカ・インディオたちの音楽との出会いです。

とりわけ、若い黒人作曲家であったハリー・サンカー・バーリとの出会いは彼に黒人音楽の本質を伝えるものでした。
ですから、そう言う新しい音楽に出会うことで、そう言う「新しい要素」を盛り込んだ音楽を書いてみようと思い立つのは自然なことだったのです。

しかし、そう言う「新しい要素」をそのまま引用という形で音楽の中に取り込むという「安易」な選択はしなかったことは当然のことでした。それは、彼の後に続くバルトークやコダーイが民謡の採取に力を注ぎながら、その採取した「民謡」を生の形では使わなかったののと同じ事です。

ドヴォルザークもまた新しく接した黒人やアメリカ・インディオの音楽から学び取ったのは、彼ら独特の「音楽語法」でした。
その「音楽語法」の一番分かりやすい例が、「家路」と題されることもある第2楽章の5音(ペンタトニック)音階です。

もっとも、この音階は日本人にとってはきわめて自然な音階なので「新しさ」よりは「懐かしさ」を感じてしまい、それ故にこの作品が日本人に受け入れられる要因にもなっているのですが、ヨーロッパの人であるドヴォルザークにとってはまさに新鮮な「アメリカ的語法」だったのです。
とは言え、調べてみると、スコットランドやボヘミアの民謡にはこの音階を使用しているものもあるので、全く「非ヨーロッパ的」なものではなかったようです。

しかし、それ以上にドヴォルザークを驚かしたのは大都市ニューヨークの巨大なエネルギーと近代文明の激しさでした。そして、それは驚きが戸惑いとなり、ボヘミアへの強い郷愁へとつながっていくのでした。
どれほど新しい「音楽的語法」であってもそれは何処まで行っても「手段」にしか過ぎません。
おそらく、この作品が多くの人に受け容れられる背景には、そう言うアメリカ体験の中でわき上がってきた驚きや戸惑い、そして故郷ボヘミアへの郷愁のようなものが、そう言う新しい音楽語法によって語られているからです。

「この曲はボヘミアの郷愁を歌った音楽であると同時にアメリカの息吹に触れることによってのみ生まれた作品である」という言葉に通りに、ボヘミア国民楽派としてのドヴォルザークとアメリカ的な語法が結びついて一体化したところにこの作品の一番の魅力があるのです。
ですから、この作品は全てがアメリカ的なもので固められているのではなくて、まるで遠い新世界から故郷ボヘミアを懐かしむような場面あるのです。

その典型的な例が、第3楽章のスケルツォのトリオの部分でしょう。それは明らかにボヘミアの冒頭音楽(レントラー)を思い出させます。
そして、そこまで明確なものではなくても、いわゆるボヘミア的な情念が作品全体に散りばめられているのを感じとることは容易です。

初演は1893年、ドヴォルザークのアメリカでの第一作として広範な注目を集め、アントン・ザイドル指揮のニューヨーク・フィルの演奏で空前の大成功を収めました。
多くのアメリカ人は、ヨーロッパの高名な作曲家であるドヴォルザークがどのような作品を発表してくれるのか多大なる興味を持って待ちかまえていました。そして、演奏された音楽は彼の期待を大きく上回るものだったのです。

それは、アメリカが期待していたアメリカの国民主義的な音楽であるだけでなく、彼らにとっては新鮮で耳新しく感じられたボヘミア的な要素がさらに大きな喜びを与えたのです。
そして、この成功は彼を音楽院の院長として招いたサーバー夫人の面目をも施すものとなり、2年契約だったアメリカ生活をさらに延長させる事につながっていくのでした。

どうしてマイナーな小道を歩み続けたのか

ホーレンシュタインという指揮者は本当に謎としか言いようがありません。戦前はフルトヴェングラーの助手も務め順調にキャリアを積み上げていったのですが、ナチスの台頭でアメリカに亡命を余儀なくされ、戦後は1949年にヨーロッパに復帰するものの特定のポス地に就くことはなく、終生客演指揮者として活動を続けました。
また、録音活動もほとんどがマイナー・レーベルが中心で、50年代はVox、そして60年代はReader's Digest等です。

それでは、指揮者としての能力に欠けていたので常任指揮者としてお呼びがかからなかったのか、さらには、メジャー・レーベルからオファーがなかったのかと言えば、それが全く持ってそうではないのです。
それは、VoxやReader's Digestに残した録音を聞けば一目瞭然(一聴瞭然?)です。
50年代にウィーン交響楽団と名乗ることが出来ずにウィーン・プロ・ムジカ管弦楽団としてVoxで録音した一連の演奏も見事なものでしたが、この60年代にやReader's Digestで行った録音も実に見事なものです。

まず気づくのは、どの作品においてもやや遅めのテンポを採用していることです。
一般的に遅めのテンポというのはクレンペラーのように構築性を押し出すためや、クナパーツブッシュのように音楽にうねりをもたらして巨大化を図るために採用されたりするのですが、ホーレンシュタインの遅さはそのようなものとは全く異なります。彼は、やや遅めのテンポを設定することで、柔らかく自然な流れをつくり出すことを目的としているのです。

それはドヴォルザークの「新世界より」ではもっとも顕著なのですが、ブラームスの第1番もフィナーレに向かって実に柔らかで自然でふくよかな雰囲気を醸し出しています。
もちろん、ワーグナーの一連の音楽でも同様で、とりわけ「ジークフリート牧歌」の優雅さは特筆ものでしょう。

そして、もう一つ注目したいのは、彼が紡ぎ出すオーケストラの音色の温かさです。おそらくは、各楽器のブレンドの仕方がこの上もなく絶妙で、やや厚めの低声部の響きを土台としてこの上もなく暖色系の美しい響きをつくり出します。そして、そう言う音色の魅力は50年代のウィーン・プロ・ムジカ管弦楽団(実態はウィーン響)で顕著だったのですが、それがロイヤル・フィルやロンドン響になっても本質的には変わらないのです。
ですから、この響きはまさにホーレンシュタイン独自のものだと言えます。

そう言えば、チェリビダッケなんかも晩年は妥協することなく彼独自の響きを求めたものですが、それと同じようなことを客演指揮で実現してしまうと言うのは驚くべきコントロール能力です。もっとも、チェリビダッケもまた客演指揮であっても鬼のようなリハーサルでどんなオケでも自ら望む響きに買えていましたが、ホーレンシュタインにはその様な強引さは見あたらないところが凄いです。

さらに、驚くべきはそう言う美しく自然に音楽が流れる中で、ここぞという場面では一気に迫力を持って畳み込んでくるのです。それは、50年代の録音ではいささか物足りなさを感じる部分であったのですが、この60年代のReader's Digestでの録音ではその殻を打ち破っています。
そして、それは褒めすぎかもしれませんが、どこか彼の師であるフルトヴェングラーを思い出させる瞬間があります。

だから、実にもって不思議なのです。
これだけの能力を持った指揮者がどうしてマイナーな小道を歩み続けたのか?

おそらくは、まわりに見る目がなかったのではなくて、それが彼にとってもっとも心地よく音楽と向き合える環境だったのでしょう。