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モーツァルト:ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 変ホ長調, K.364
カール・ベーム指揮 (Vn)トマス・ブランディス (Va)ジュスト・カッポーネ ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 1964年12月録音をダウンロード
- Mozart:Sinfonia concertante in E-flat major, K.364/320d [1.Allegro maestoso]
- Mozart:Sinfonia concertante in E-flat major, K.364/320d [2.Andante]
- Mozart:Sinfonia concertante in E-flat major, K.364/320d [3.Presto]
痛切なる青春の音楽
私が初めてウィーンとザルツブルグを訪れたのは1992年のことで、ちょうどその前の年はモーツァルトの没後200年という事で大変な盛り上がりをみせた後でした。とはいっても、未だに町のあちこちにその「余熱」のようなものがくすぶっているようで、いまさらながらモーツァルトいう存在の大きさを実感させられました。
さて、その没後200年の行事の中で、非常に印象に残っているシーンがあります。それは、ヨーロッパで制作されたモーツァルトの伝記ドラマだったと思うのですが、若きモーツァルトが失意の底で野良犬のように夜のウィーンをさまよい歩くシーンです。そこにかぶさるように流れてきた協奏交響曲の第2楽章の冒頭のメロディがこのシーンに見事なまでにマッチングしていました。
ドラマのBGMというのは安直に選択されることが多くて邪魔にしかならないことも多いのですが、その時ばかりは若きモーツァルトの痛切なまでの悲しみを見事に表現していて深く心に刻み込まれたシーンでした。
ところが、この冒頭のメロディは一度聞けば絶対に忘れないほどに魅力的なメロディなのに、そのメロディは楽章の冒頭に姿を現すだけで、その後は二度と姿を見せないことに恥ずかしながら最近になって気がつきました。
似たような形に変形されては何度も姿を現すのですが、あのメロディは完全な形では二度と姿を現さないのです。
もったいないといえばこれほどもったいない話はありません。しかし、その「奥ゆかしさ」というか「もどかしさ」がこの作品にいいようのない陰影をあたえているようです。
冒頭の部分で愛しき人の面影をしっかりと刻み込んでおいて、あとはその面影を求めて聞き手をさまよい歩かせるような風情です。
そして、時々その面影に似た人を見かけるのですが、それは似てはいてもいつも別人なのです。そして、音楽はその面影に二度と巡り会えないままに終わりを迎えます。
いかにモーツァルトといえども、青春というものがもつ悲しみをこれほどまでに甘く、そして痛切にえがききった作品はそうあるものではありません。
こんなに立派な音楽だったかしら
協奏交響曲というのは一般的に「交響曲」ではなく「協奏曲」に分類されます。それは複数のソロ奏者とオーケストラとの協演を目的とした楽曲を意味しているからです。しかし、こういう作品を演奏するときは特別にソリストを招いて演奏することは少なく、オーケストラの当該パートの首席奏者がソロをつとめることが多いようです。例えば、最近紹介したレーデル指揮の録音ではヴァイオリンにヨゼフ・スーク 、ヴィオラにミラン・シュカンバを起用していたのですが、そう言う例は少ないようです。
スークやシュカンバの味のある独奏を聴いていると、そのようにソリストを招いた方が面白い演奏になることが多いなと思わざるを得ません。
しかし、それとは別にこのベームとベルリンフィルのように、トマス・ブランディスやジュスト・カッポーネを起用した「ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲」や、カール・シュタインス、カール・ライスター、ゲルト・ザイフェルト、ギュンター・ピースクを起用した「管楽器のための協奏交響曲」のようにオケの首席奏者をソリストに起用すると、ソロパートの多い管弦楽曲の様に聞こえてしまいます。
その極端な例がセルとクリーブランド管による「ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲」の録音でしょう。あそこでは、ソリストは完全に指揮者の統率下に組み込まれていました。
それと比べれば、このベームの演奏はそこまで厳しい統制下にはおいてはいませんが、それでも、協奏曲と言うよりはなんだか妙に立派な管弦楽曲を聴かされたような気になります。
特に、あまり聞かれる機会の少ない「管楽器のための協奏交響曲」などは、こんなに立派な音楽だったかしらと思ってしまいます。
さらに言えば、それぞれの管楽器奏者の腕前は申し分ないので、その部分もまた十分に楽しめます。
「複数のソロ奏者とオーケストラとの協演」と言うことならば面白味には欠けるかもしれませんが、まあここまで立派な構えの音楽にしてくれるならば、それはそれで十分に良しとすべきなのでしょう。