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モーツァルト:交響曲第31番ニ長調 K.297 「パリ」/バレエ音楽「レ・プティ・リアン」序曲, K.299b (Ahn.10)


フェルディナント・ライトナー指揮 バイエルン放送交響楽団 1959年4月11日~12日録音をダウンロード

  1. Mozart:Symphony No.31 in D major, K.297/300a "Paris" [1.Allegro assai]
  2. Mozart:Symphony No.31 in D major, K.297/300a "Paris" [2.Andante]
  3. Mozart:Symphony No.31 in D major, K.297/300a "Paris" [3.Allegro]
  4. Mozart:Les petits riens, K. Anh. 10/299b

モーツァルトの交響曲の中では最も規模の大きな作品



アインシュタインは交響曲の分野においては、「1773年に大転回がおこる」と述べています。
1773年に書かれた交響曲はナンバーで言えば23番から29番にいたる7曲です。このうち、23・24・27番、さらには26番は明らかにオペラを意識した「序曲」であり、以前のイタリア風の雰囲気を色濃く残したものとなっています。しかし、残りの3曲は、「それらは、---初期の段階において、狭い枠の中のものであるが---、1788年の最後の三大シンフォニーと同等の完成度を示す」とアインシュタインは言い切っています。

「飛躍」を成し遂げたモーツァルトは、交響曲を「連作」することは不可能になります。
「モーツァルトの胸中には、シンフォニー的なものの新しい概念が発展したからである。この概念は、もはや「連作」作曲を許さず、単独作品の作曲だけを可能にするのである」(アインシュタイン)

モーツァルトは73年から74年にかけての多産の時期を過ぎると交響曲に関してはぴたりと筆が止まります。それは基本的には領主であったコロレードがモーツァルトの演奏旅行を「乞食のように歩き回っている」として制限をかけたことが一番の理由ですが、内面的には上述したような事情もあったものと思われます。
そんなモーツァルトが再び交響曲を書き出すのは、日々強まるコロレードからの圧力を逃れるための「就職先探し」の旅が契機となります。
モーツァルトとコロレードの不仲は1777年に臨界点に達し、ついにクビになってしまいます。そして、モーツァルトはこのクビを幸いとして就職先探しのための旅に出かけます。
しかし、現実は厳しく、かつては「神童モーツァルト」としてもてはやした各地の宮廷も、ザルツブルグの大司教に遠慮したこともあって体よく就職を断られていきます。期待をしたミュンヘンもマンハイムも断られ、最後の望みであったパリにおいても神童であったモーツァルトには興味は持ってくれても、大人の音楽家となったモーツァルトには誰も見向きもしてくれませんでした。そして、その旅の途中で母を亡くすという最悪の事態を迎え、ついにはコロレードに詫びを入れて復職するという屈辱を味わうことになります。
しかし、この困難の中において、モーツァルトは己を売り出すためにいくつかの交響曲を書きます。

<パリ・ザルツブルグ(1778年~1780年)>

  1. 交響曲第31番 ニ長調 "Paris" K.297

  2. 交響曲第32番 ト長調 K.318

  3. 交響曲第33番 変ロ長調 K.319

  4. 交響曲第34番 ハ長調 K.338


通称「パリシンフォニー」と呼ばれるK297のシンフォニーは典型的な2管編成の作品で、モーツァルトの交響曲の中では最も規模の大きな作品となっています。それは、当時のパリにおけるオーケストラの編成を前提としたものであり、冒頭の壮大なユニゾンもオケの力量をまず初めに誇示するために当時のパリでは常套手段のようにもいられていた手法です。また、この作品を依頼した支配人から転調が多すぎて長すぎると「ダメ出し」がだされると、それにしたがって第2楽章を書き直したりもしています。
何とかパリの聴衆に気に入られて新しい就職先を得ようとするモーツァルトの涙ぐましい努力がかいまみられる作品です。
しかし、先に述べたようにその努力は報いられることはなく、下げたくない頭を下げてザルツブルグに帰って教会オルガニストをつとめた79年から80年にかけての2年間は、モーツァルトの生涯においても精神的に最も苦しかった時代だと言えます。その証拠に、モーツァルトの生涯においてもこの2年間は最も実りが少ない2年間となっています。そのため、この2年間に書かれた32番から34番までの3曲は再び「序曲風」の衣装をまとうことになります。おそらくは、演奏会などを開けるような状態になかったことを考えれば、これらの作品はおそらくどこかの劇団からの依頼によって書かれたものと想像されています。

モーツァルト:バレエ音楽「レ・プティ・リアン」序曲, K.299b (Ahn.10)


バレエ音楽「レ・プティ・リアン」序曲はモーツァルトのパリ滞在時の作品です。当時のパリで大きな力を持っていたパリ・オペラ座のノヴェールからの依頼で引き受けた仕事です。それは、モーツァルトにとっては実に下らぬ仕事だったのですが、その代わりにノヴェールからオペラの作曲を依頼されることを期待したものでした。

ノヴェールはちょうどバレエの半分をほしがっていたので、ぼくがその音楽を書きました。 つまり6曲は他の作曲家によって書かれたもので、それは古くさい、みじめなフランスの歌からできています。 序曲とコントルダンス全12曲は、ぼくが書きました。 このバレエはもう4回も上演されて、大好評を博しました。


しかし、この作品には謝礼も支払われず、期待したオペラの依頼もありませんでした。さらに、上演に際しても、作曲者については何もふれられず、結果としてモーツァルトはノヴェールにいいように利用されただけの結果となりました。そして、失意の内に、嫌で嫌で仕方のなかったザルツブルグに戻ることになります。
おそらく、モーツァルトの人生におけるどん底の時期でした。

ただし、モーツァルトはノヴェールの娘のために1曲のピアノ協奏曲を残しています。それが「ジュノーム」です。
まあ、それだけでも後世の私たちはノヴェールに感謝すべきなのかもしれません。

優美で気品に溢れたモーツァルト

これもまた中古レコードが音源です。ネットで何か面白いレコードはないものかと検索しているときに「フェルディナント・ライトナー」という名前が少し興味をひいてポチってしまった音源です。
ライトナーといえばNHK交響楽団の指揮台にもたびたび登場し、個人的には非常になじみ深い指揮者だったからです。
また、私はまだ子供だった時代なのですが、彼の初来日が1964年の「第7回大阪国際フェスティバル」だったと言うことも親しみを覚える理由の一つでした。そして、このレコードの帯には「大阪フェスティバルに来日のライトナーの最新盤」と麗々しく記されていたのです。

と言うことでポチってしまったのですが、調べてみると「大阪フェスティバルに来日のライトナーの最新盤」と記されているにもかかわらず、この2曲のモーツァルトは1959年に録音されたもので、全く持って「最新盤」ではなかったのです。この時代は宣伝のキャッチコピーも随分と怪しげでいい加減なものだったようです。

サヴァリッシュの時にも書いたことなのですが、N響などでなじみ深くなった指揮者は何故か日本ではあまり有難味が薄れるのか、なんの根拠もなしに一段低く見られてしまう悪癖があります。
このライトナーもそうで、彼への印象はヨーロッパでも活躍している手堅い職人型の指揮者というもので、偉大なマエストロとはとらえられていなかったようです。

それにしても、1964年に発売したレコードに、1959年に録音した音源を使って「最新盤」として売り出すというのは、ライトナーへの侮りがどこか透けて見えます。

ちなみに、大阪フェスティバルでのプログラムは以下のようなものでした。オケは「ケルン古典管弦楽団」でした。

5月2日
独奏:ウルリッヒ・コッホ(ビオラ・ダモーレ)

  1. テレマン:管弦楽組曲 ハ長調

  2. ヴィヴァルディ:ビオラ・ダモーレ協奏曲 ニ長調

  3. モーツァルト:交響曲 イ長調, K.201

  4. ヘンデル:コンチェルト・グロッソ ヘ長調 作品3?4

  5. J. S. バッハ:管弦楽組曲 第3番 ニ長調



5月3日

  1. ヘンデル:コンチェルトグロッソ ト短調 作品6?6

  2. J. S. バッハ:管弦楽組曲第2番 ロ短調

  3. テレマン:協奏曲 ニ長調

  4. モーツァルト:セレナード と行進曲ニ長調 K.203, K.237


実に渋いですね。

とまあ、入らぬ前置きが長くなったのですが、それほどの期待もなく針を落としたレコードなのですが、演奏は驚くほどに素晴らしく、自分の中にもライトナーという指揮者への侮りがあったことに気づかされてしまいました。
それにしても、この優美にして気品のあるモーツァルトの素晴らしさはなんとしたものでしょう。
それは、この時代の巨匠たち、例えばベームやヨッフムのような重厚でどこか鈍重なモーツァルトとは全く違います。かといって、後のピリオド演奏に繋がっていくようなムーブメントの中で生み出されつつあったモーツァルトても明らかに異なります。
そしてまた、セルのような白磁のように磨き上げたモーツァルトとも異なります。

いろいろ思い浮かべても、これと似たようなモーツァルトは思い浮かばないのです。
しかし、何気ない素振りで始まり、そして音楽はごく自然に流れて生きるだけなのに、そこに漂う気品の高さは聞けば聞くほどに心の中に染み込んできます。

おそらく、ライトナーという人は古きヨーロッパの「偉大なるカペルマイスター」の最後の生き残りだったのかもしれません。そして、その意図するところを万全に理解して素晴らしい響きで応えたバイエルン放送交響楽団もあっぱれです。