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ロッシーニ:歌劇「ランスへの旅」序曲(Rossini:il Viaggio A Reims Overture)
ジョージ・セル指揮 クリーヴランド管弦楽団 1967年5月5日録音(George Szell:Cleveland Orchestra Recorded on May 5, 1967)をダウンロード
人生の達人
ロッシーニの人生を振り返ってみると、彼ほど「人生の達人」という言葉が相応しい人は滅多にいません。
なにしろ、人生の前半は売れっ子のオペラ作曲家としてばりばり働き、十分に稼いだあとはそんな名声などには何の未練も残さずにあっさりと足を洗って悠々自適の人生を送ったのですから。
私たちが暮らす国では「生涯現役」とか言われて、くたばるまで働くのが美徳のように言われますが、ヨーロッパでは若い内はバリバリ働いてお金を稼ぎ、その稼いだお金で一刻も早くリタイアするのが理想の生き方とされます。
その根っこには、「労働は神から与えられた罰」であるというローマカソリックの考え方があります。
そう言えば、あるフランス人に日本における「窓際族」という概念をいくら説明しても理解できなかったそうです。
日本では仕事を取り上げることで退職に追いやる仕打ちも、フランス人から見れば何の仕事もしないでポジションと給料が保障されるのはパラダイスと認識されるのです。さらに、そのフランス人は「その窓際族というのはどれほどの貢献をすることで与えられるポジションなのだ」と真顔で聞いてきたそうです。
ですから、音楽の世界で成功を収め、さっさと引退して自分の趣味生きたロッシーニは、ヨーロッパ的価値観から言えば一つの理想だったのです。
しかし、十分すぎるほど稼いだと言う以外に、彼の音楽のあり方が次第に時代とあわなくなってきたことも重要な一因ではなかったかと考えます。
ロッシーニが生きた時代は古典派からロマン派へと音楽の有り様が大きく変わっていた時代なのでですが、彼の音楽は基本的には古典派的なものです。一連のオペラ序曲に聞くことが出来る「この上もなく明るく弾むような音楽」は屈折を持って尊しとする(^^;、ロマン派的なものとはあまりにもかけ離れているように思います。
もしそのような「自分の本質」と「時代の流れ」を冷静に見きってこのような選択をしたのなら、実にもう大したものです。
「ランスへの旅」序曲
この作品はパリ市がシャルル10世の戴冠を祝う祝典曲としてロッシーニに依頼したものです。しかし、この一幕の歌劇は長く楽譜が失われていて、20世紀も後半になって、ようやく上演可能な程度に資料が発見されたものです。ですから、この作品はそう言う一連の資料をもとに復元されたもので、ロッシーニ自身がかいたものとイコールではないそうです。
序曲は祝典音楽に相応しく堂々たる序奏で始まります。その後に続く主部は三部形式で書かれていて、のどかな管楽器の響きに続いて舞曲風の音楽が続き、それらが実に華麗に展開されて賑やかな終結へとなだれ込んでいきます。まさに祝典劇に相応しい序曲と言えます。
彼らの音楽の特徴をもっとも如実に表現している
ふと気づくと、セルとクリーブランド管によるロッシーニの序曲集をアップしていないことに気づきました。あの録音は、ある意味では彼らの音楽の特徴をもっとも如実に表現しているものの一つだけに、このうっかりは笑えません。おそらく、録音が1967年で初出年が上手く確認できなかったのかもしれません。しかし、この欠落に気づいて再度確認したところ初出年も1967年なので間違いなくパブリック・ドメインです。あー、気づいて良かった!!
さて、この録音を「彼らの音楽の特徴をもっとも如実に表現しているものの一つ」と書いたのですが、それは今さら言うまでもなく彼らは音楽のアンサンブルを極限まで高めることからスタートしたということを如実に表現しているということです。
彼らはまずは作曲家の要求する楽譜の指示に従って忠実に演奏できるように徹底的にオケを鍛えることを最低条件としました。もちろん、彼らはそれで事足れりなどとは思ってはいなかったのですが、とにもかくにも、その事が完璧に実現できなければ一歩も前に進まなかったのです。
ただし、その要求レベルは非常に高いものでした。
セルが手兵のクリーブランド管について「私たちは他のオケならばリハーサルを終える時点からリハーサルを開始する」と豪語したことを思い出せばその要求水準の尋常ならざる高さが窺えるでしょう。
セルはオケにスタープレーヤーを必要としませんでした。
しかし、それはクリーブランド管にスタープレーヤーがいなかったことを意味するのではなくて、他のオケにいけば間違いなくスタープレーヤーとして活躍できる楽員を数多くかかえていました。しかし、そう言うメンバーがオケのアンサンブルの中で目立つことをセルは嫌いました。
セルはどれだけ力のあるスタープレーヤーであってもオケの一員として全体のアンサンブルに溶け込むことを強く要求したのです。
セルは常に音楽の外形からアプローチを開始したのです。例えてみれば、それは外堀から埋め立てていって本丸に至ろうとするアプローチといえるかもしれません。しかし、セルはその演奏が外堀を埋めるだけでは決して満足はせずに、まさにそこをスタート地点として、常に本丸を目指したことを忘れてはいけません。
「楽譜に忠実な演奏」の少なくない部分がつまらないのは、本丸に至ることなく外堀を埋めただけで作業をやめているからです。
そう言う彼らの演奏の特徴がしっかりと堪能できるのがこのロッシーニの序曲集なのです。