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ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲(Debussy:Prelude a l'apres-midi d'un faune)
シャルル・ミュンシュ指揮:ボストン交響楽団 1962年3月13日録音(Charles Munch:The Boston Symphony Orchestra Recorded on March 13, 1962)をダウンロード
苦手なドビュッシーの中でこれだけは大好きでした。
ドビュッシーは苦手だ・・・、と言うことはあちこちで書いてきました。ピアニストが誰だったかは忘れましたが、オール・ドビュッシーのプログラムで、コンサートが始まると同時に爆睡してしまったことがあるほどです。あの茫漠としたつかまえどころのない音楽が私の体質には合わないと言うことなのでしょう。
しかし、そんな中で、なぜかこの「牧神の午後への前奏曲」だけは若い頃から大好きでした。
何とも言えない「カッタルーイ」雰囲気がぬるま湯に浸かっているような気分の良さを与えてくれるのです。言葉をかえれば、いつもはつかまえどころがないと感じるあの茫漠たる雰囲気が、この作品でははぐれ雲になって漂っているような心地よさとして体に染みこんでくるのです。
我ながら、実に不思議な話です。
何故だろう?と自分の心の中を探ってみて、ふと気づいたのは、響きは「茫漠」としていても、音楽全体の構成はそれなりに筋が通っているように聞こえることです。響きも茫漠、形式も茫漠ではつかまえどころがないのですが、この作品では茫漠たる響きで夢のような世界を語っているという「形式感」を感じ取れる事に気づかされました。
それは、この作品がロマン派の音楽から離陸する分岐点に位置していることが大きな理由なのでしょう。
牧神以前、以後とよく言われるように、この作品はロマン派に別れを告げて、20世紀の新しい音楽世界を切り開いた作品として位置づけられます。そして、それ故に冒頭のフルートの響きに代表されるような「革新性」に話が集中するのですが、逆から見れば、まだまだロマン派のしっぽが切れていないと言うことも言えます。そして、その切れていないしっぽの故に、ドビュッシーが苦手な人間にもこの作品を素直に受け入れられる素地になっているのかもしれません。それは、調性のある音楽に安心感を感じる古い人間にとっての「碇」みたいなものだったのかもしれません。
現実の世界に引きずり出している
ドビュッシーがストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」を高く評価したというのは有名な話です。彼は、おぼろげな光の中に消えていく人形の姿に、自分が目指している音楽との共通点を見いだしたのでしょう。もっとも、ストラヴィンスキーにとってはそんな事はどうでもいい話であって、彼は彼の道を歩むことで「春の祭典」を発表し、そんなドビュッシーの思いなどは木っ端微塵に打ち砕いてしまいました。
そして、私がどうにもドビュッシーが苦手だと思う理由は、まさにこのエピソードに表れているような気がします。
おそらく、ドビュッシーの音の世界というのは「あの世」でもなく「この世」でもない、その間に存在するかのしれない「あわいの世界」のような気がするのです。おそらく、彼がペトルーシュカに見いだしたのも死でもなく生でもない、そのはかなげに消えていく「あわい」の世界だったのでしょう。
しかし、その「あわい」の世界が持つ曖昧さというか茫洋感というか、そう言うものがどうにも生理的に受け付けないのです。
ところが、面白いことに、このミンシュの手になるドビュッシーは明確に「あわいの世界」にたたずむドビュッシーを「この世の世界」に引き戻しています。
考えてみれば、ミンシュという人はフランスとドイツという二つの現実の「あわい」に生きた人でした。そんな「あわい」に生きたミンシュが、ドビュッシーの音楽をドイツ的な現実の世界に引きずり出しているのです。
おそらく、ドビュッシーに「あわい」の世界を愛する人にとってはこれはかなり我慢の出来ない演奏でしょう。それは、決して否定しません。
しかし、まさにその様な「あわい」の世界に戸惑うものにとっては、これはこれで十分に「あり」かなと思える演奏なのです。