クラシック音楽へのおさそい~Blue Sky Label~



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モーツァルト:弦楽五重奏曲第4番 ト短調 K.516(Mozart:String Quintet No.4 in G minor, K.516)


ブダペスト弦楽四重奏団:((Viola)ワルター・トンプラー 1966年2月16日~17年日録音(Budapest String Quartet:(Viola)Walter Trampler Recorded on February 16-17, 1966)をダウンロード

  1. Mozart:String Quintet No.4 in G minor, K.516 [1.Allegro]
  2. Mozart:String Quintet No.4 in G minor, K.516 [2.Menuetto and Trio. Allegretto]
  3. Mozart:String Quintet No.4 in G minor, K.516 [3.Adagio ma non troppo]
  4. Mozart:String Quintet No.4 in G minor, K.516 [4.Adagio ? Allegro]

モーツァルトならではのファンタジーがあふれ出すスタイル



弦楽四重奏と言えばヴァイオリン2丁にヴィオラ、チェロそれぞれ1丁と相場は決まっています。しかし、五重奏となるといろいろなバリエーションが出てきます。
低声部を強化するためにチェロを追加するのか、はたまたオケの弦楽五部のようにコントラバスを追加するのか、または、内声部を強化するためにヴィオラを追加するのか、一口に弦楽五重奏と言っても、カルテットを基本としながらも、そこに何を追加するのかで音楽の雰囲気は随分と変わってきます。
そこでモーツァルトですが、彼はディヴェルティメントの編曲版も加えると生涯に弦楽五重奏を6曲書いていますが、その全てがヴィオラを追加するスタイルで書かれています。
こんな事を書くとお叱りを受けるかもしれませんが、どうも弦楽四重奏というスタイルはモーツァルトにとって窮屈なスタイルだったようです。

よく知られている話ですが、スコアを書くときには作品はすでに頭の中で仕上がっていたと言われるモーツァルトも、弦楽四重奏だけは何度も書き直して推敲した後が残っていました。つまり、あふれ出すイメージとファンタジーだけでは作品としては完成しきれない厳格さを弦楽四重奏はもっているということです。そう言う意味で、このスタイルを完成させたのがベートーベンだったというのは実に納得のいく話です。
ところが、そこにヴィオラを1丁追加するだけで、モーツァルトは途端にその窮屈さから解放され、モーツァルトならではのファンタジーがあふれ出します。

弦楽四重奏ではどこか窮屈に身を屈めていたのが、五重奏になると元の自由を取り戻しているように聞こえます。
もちろん、モーツァルトの弦楽四重奏が駄作であるはずはありませんが、しかし。そこにクラリネットを追加したり、ヴィオラを追加して五重奏にした方が、はるかにモーツァルトらしい音楽が聞けるように思えますが、いかがなものでしょうか。

弦楽五重奏曲第2番 ハ短調 K.406 (516b)


弦楽五重奏曲第3番 ハ長調 K.515


弦楽五重奏曲第4番 ト短調 K.516



ウィーン時代の終わりに、モーツァルトはディヴェルティメントの改作も含めて、3つの弦楽五重奏曲を残しています。おそらくは、人気絶頂だった時代に3曲のピアノ協奏曲を筆写譜として販売して大成功したことを思い出しての試みだと言われています。しかし、すでにウィーンの公衆から見放されていたモーツァルトの音楽にお金を出す人はなく、結局は叩き売りの状態で出版社に譲り渡すことになりました。
しかし、ハ長調とト短調の二つの作品こそは、人類が書いた最高の室内楽作品の一つであることは疑う余地がありません。あのアインシュタインは、ハ長調のクインテットの冒頭を「誇らかで、王者のようで、運命を孕んでいる」と述べています。そして、ト短調の冒頭は「かなしさは疾走する。涙は追いつけない。(小林秀雄)」のです。
ディヴェルティメントを改作したハ短調は作曲家としての良心にいささか反する面はあるでしょうが、それでも行事の終わりとともに消え去る運命にある機会音楽としてのディヴェルティメントを永遠に残したいという思いはあったでしょうから、悪い作品ではありません。特にそのフィナーレは「ハ短調コンチェルトの精神を先取りしている」とアインシュタインは述べています。

これからの人生において絶対に必要な音楽ジャンル

最近はアナログ・レコードを聞く回数が増えてきています。昔はデジタル:アナログを聞く比率が「9:1」くらいだったのが最近は「3:1」くらいになっているでしょうか。それだけオーディオ仲間にアナログ愛好家が多いという傾向が私の聞き方にも影響を与えていると言うことなのでしょう。
ただし、厄介なのは、さて今日はどのレコードを聞くかと探し始めても、あまり整理されいないレコードのラックから目的の1枚を探し出すのが非常に困難だと言うことです。ですから、最近はこ1枚と言うよりはラックを適当に探っていておもしろそうなものに出会うとそれを聞くというスタイルになってきています。
と言うことで、そんな「探索」の中で久しぶりに出会ったのがこの1枚です。

  1. モーツァルト:弦楽五重奏曲第4番 ト短調 K.516

  2. モーツァルト:弦楽五重奏曲第3番 ハ長調 K.515


演奏はともにブダペスト弦楽四重奏団&ワルター・トンプラーによる1966年録音のものです。
そして、この1枚を手にしたときにとても懐かしいものがよみがえってきました。

おそらく、このレコードを買ったのは20代の頃だったはずです。
そして、それはクラシック音楽などと言うものを聞き始めて間もない頃であり、新しい1枚のレコードを選ぶときの水先案内になったのは疑いもなく「教養主義」でした。
レコードを選ぶのに「教養主義」とはどういう事かという話なのですが、具体的に言えばこのレコードを買い込む前に小林秀雄の「モーツァルト」がありました。
奏、あまりにも有名なあの一節が記されている評論です。

少し長くなりますが引用します。

スタンダアルは、モオツァルトの音楽の根柢は tristesse (かなしさ)というものだ、と言った。定義としてはうまくないが、無論定義ではない。正直な耳にはよくわかる感じである。浪漫派音楽が tristesse を濫用して以来、スタンダアルの言葉は忘れられた。 tristesse を味わう為に涙を流す必要がある人々には、モオツァルトの tristesse は縁がない様である。それは、凡そ次のような音を立てる、アレグロで。

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ゲオンがこれを tristesse allante と呼んでいるのを、読んだ時、僕は自分の感じを一と言で言われた様に思い驚いた。確かに、モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に、「万葉」の歌人が、その使用法をよく知っていた「かなし」という言葉の様にかなしい。こんなアレグロを書いた音楽家は、モオツァルトの後にも先きにもない。まるで歌声の様に、低音部のない彼の短い生涯を駆け抜ける。彼はあせってもいないし急いでもいない。彼の足取りは正確で健康である。彼は手ぶらで、裸で、余計な重荷を引き摺っていないだけだ。彼は悲しんではいない。ただ孤独なだけだ。孤独は、至極当たり前な、ありのままの命であり、でっち上げた孤独に伴う嘲笑や皮肉の影さえない。


クラシック音楽を聞き始めて間もない若者にとってはこの上もなく蠱惑的な一節であり、これはどうしてもト短調の弦楽五重奏曲を聴かなければならないと考え、そうなると次に問題になるのはどのレコードを買うかです。
しかし、それは簡単に解決します。
何故ならば、吉田秀和の「LP300選」に推薦盤として「ブダペスト弦楽四重奏団&ワルター・トンプラーによる1966年録音」の1枚が示されていたからです。

そう言うわけで、まさに「教養主義」の産物としてこの1枚は私の手もとにやってきたのです。
そして、期待に胸ふくらませてレコードの針を落としたのですが、正直な感想は「何じゃ、これ?」でした。
音楽を聞くのに分かるも分からないもないのですから、要は地味で退屈な音楽としか思えなかったのです。そして、そんなおかげでか、購入後30年以上たっているのに盤面の状態は極めて良好で、実に上手く板おこしが出来ました。(^^;

そうだよな、若い頃はどうして室内音楽などと言う地味で退屈なジャンルがあって、それを極めて高く持ち上げる人がいるのが不思議でならなかったものです。こんな退屈な音楽を聞く時間があるならば、マーラーやブルックナーを派手に鳴らして聞いている方がはるかに大きな喜びを与えてくれたものでした。

しかし、人は年を重ねると変わるものです。今では、マーラーやブルックナーを聞くことはほとんどありません。逆に、若い頃はあれほどに退屈でつまらないと思えた室内楽作品を聞くことが多くなってきている自分に我ながら驚いています。

さて、この録音なのですが、今あらためて聞き直してみると実に端正で整った造形が印象的です。もう少し愛敬があってもいいのでhないかと思うのですが、作品の姿を知る上では申し分のない演奏です。
しかし、この演奏はヴィオラのワルター・トランプラーがいてこその値打ちなどと良く言われるのですが、正直にいって私はその「値打ち」というのがよく分かりません。だいたいからして、どちらのヴィオラ・パートをトンプラーが弾いているのかもよく分からないのですから、そんな駄耳で分かるはずがないのです。
まあ、クラシック音楽を何十年と聞き続けていても正味のところはそんな程度です。

しかし、このト短調と、それとは対照的なハ長調の五重奏曲を聴く喜びは若い頃には絶対に分からないものでした。それが果たして、年の功を経たおかげなのか、長年聞き続けたおかげなのか、それともただのパワーの減衰がもたらしたものは分かりません。
ただ、これからの人生において絶対に必要な音楽ジャンルであることは間違いないようです。

異常気象に世界各地での戦争と、心がささくれ立つような2023年でしたがそれも今日で終わりです。とは言え、年があらたまったとしてもこの世が「涙の谷」であることには何のかわりもないのです。
この一年、このようなサイトを訪れていただいた多くの方に感謝の言葉を述べて年じまいとします。

千年の柱にもたれて去年今年