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チャイコフスキー:交響曲第5番 ホ短調 作品64(Tchaikovsky:Symphony No.5 in E minor, Op.64)
ルドルフ・ケンペ指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 1959年5月2日~6日録音(Rudolf Kempe:Berlin Philharmonic Orchestra Recorded on May 2-6, 1959)をダウンロード
- Tchaikovsky:Symphony No.5 in E minor, Op.64 [1.Andante - Allegro con anima]
- Tchaikovsky:Symphony No.5 in E minor, Op.64 [2.Andante cantabile con alcuna licenza]
- Tchaikovsky:Symphony No.5 in E minor, Op.64 [3.Valse. Allegro moderato]
- Tchaikovsky:Symphony No.5 in E minor, Op.64 [4.Finale. Andante maestoso - Allegro vivace]
何故か今ひとつ評価が低いのですが・・・
チャイコフスキーの後期交響曲というと4・5・6番になるのですが、なぜかこの5番は評価が今ひとつ高くないようです。
4番が持っているある種の激情と6番が持つ深い憂愁。
その中間にたつ5番がどこか「中途半端」というわけでしょうか。
それから、この最終楽章を表面的効果に終始した音楽、「虚構に続く虚構。すべては虚構」と一部の識者に評されたことも無視できない影響力を持ったのかもしれません。
また、作者自身も自分の指揮による初演のあとに「この作品にはこしらえものの不誠実さがある」と語るなど、どうも風向きがよくありません。
ただ、作曲者自身の思いとは別に一般的には大変好意的に受け入れられ、その様子を見てチャイコフスキー自身も自信を取り戻したことは事実のようです。
さてお前はそれではどう思っているの?と聞かれれば「結構好きな作品です!」と明るく答えてしまいます。
チャイコフスキーの「聞かせる技術」はやはり大したものです。確かに最終楽章は金管パートの人には重労働かもしれませんが、聞いている方にとっては実に爽快です。
第2楽章のメランコリックな雰囲気も程良くスパイスが利いているし、第3楽章にワルツ形式を持ってきたのも面白い試みです。
そして第1楽章はソナタ形式の音楽としては実に立派な音楽として響きます。
確かに4番と比べるとある種の弱さというか、説得力のなさみたいなものも感じますが、同時代の民族主義的的な作曲家たちと比べると、そういう聞かせ上手な点については頭一つ抜けていると言わざるを得ません。
いかがなものでしょうか?
「浮世離れしたほどの徹底的な保守主義者」の面目躍如難
ケンペと言えばベートーベンやブラームスに代表されるようなドイツ・オーストリア系の正統派の作品を手堅くまとめ上げるというイメージがついて回ります。ついでに付け加えれば、一聴しただけではその良さは伝わらないけれども、何度も繰り返し聞くうちにその真価が理解できる指揮者と言う評価もついて回りました。ただし、少しばかり嫌みっぽく言えば、これほど情報があふれかえっている世の中で、一度聞いただけでは魅力がストレートに伝わってこないような演奏を、何度も繰り返し聞くような「暇人」がどれほどいるのだろうかと心配になってしまいます。
しかし、不思議な話なのですが、そう言うケンペにとっては「本線」である作品以外となると、何回も聞き返さなくてもストレートに面白い音楽を聞かせてくれるのです。
その一例として、チャイコフスキーの「悲愴」やリムスキー=コルサコフの「シェエラザード」などをすでに紹介してあります。
そう言う演奏を聞いていてふと思い出すのがデッカのカルショーがケンペのことを「浮世離れしたほどの徹底的な保守主義者」と評した事です。カルショーはクーベリックのことを「徹底した保守主義者」と評し、その流れの中でケンペにはさらに「浮世離れした」という言葉を付け加えたのです。
ケンペと言う指揮者は新しいことにはほとんど興味を示さず、長い年月にわたって積み重ねられてきた西洋の歴史と伝統を体と心の奥底までにしみ通らせた人でした。
ですから、交響曲であれば、それがチャイコフスキーであってもまるでベートーベンの交響曲であるかのように演奏するのです。ただし、それがはムラヴィンスキーのように「チャイコフスキーのシンフォニーをベートーベンの不滅の9曲にも匹敵する偉大な音楽だと心の底から信じていた」のではなくて、あくまでも「チャイコフスキーのシンフォニーをベートーベンの不滅の9曲と同じような手法」で演奏したものでした。
そして、シェエラザードのような音楽物語ならば彼の根っこにあるオペラ指揮者としての本能からか、実に面白く、そして美しく音楽物語として語り聞かせてくれるのです。そう、ケンペは本当に偉大なオペラ指揮者でもあったのです。
と言うことで、前置きが随分長くなりましたが、チャイコフスキーの5番です。
ブラームスはこの作品に関して第1楽章から第3楽章までは良いが第4楽章は気に入らないとチャイコフスキーに伝えたそうです。それはかなり穏便な物言いであって、もっと酷い人になると「虚構に続く虚構。すべては虚構」と酷評しています。
そのためもあってか、チャイコフスキー自身も「この作品にはこしらえものの不誠実さがある」などと言う弱気な言葉が残っています。
しかし、そう言う作品をケンペの演奏で聞くと、ブラームスの評価の何と正しいことかと感心させられてしまいます。
この演奏では前半の3つの楽章をベートーベンの交響曲のように演奏することで、この上もなく「古典的な佇まい」を持った交響曲であることをものの見事に証明してくれています。もっとも、その対価として「スラブの憂愁」とは縁遠い音楽になっているのですが、ブラームスが「第1楽章から第3楽章までは良い」と言ったのは、全否定を避けるためのエクスキューズではなかったことが伝わってきます。
つけてくわえれば、未だ田舎オケの風情を残していたベルリン・フィルの響きが古典派に相応しい力強さ、ただし力みかえった力強さではなくて端正な力強さを際だたせています。
ただし、そう言う手法で第4楽章に突入すると、確かにある種の違和感を感じざるを得ません。
有り体に言えば、ケンペが見事に統率しているが故にこの最終楽章が持っている弱さみたいなものが嫌でも浮き上がってくるのです。
普通は、それならそれで、ある種の外連味みたいなものを加味する指揮者も多いのでしょうが、ケンペは前の3楽章と同じように真っ向勝負で造形していきます。それが生真面目であるが故に作品が持つ音楽的な薄さが浮き彫りになり、逆にそこに効果狙いの底意みたいなものをさらけ出してしまうのです。
そう言えば、セルとクリーブランド管が初来日したときにシベリウスの2番を演奏したのですが、その時もセルの指揮とそれに応えるクリーブランド管が完璧であるが故に最終楽章の弱さが浮き彫りになると評されたのを思い出しました。
ですから、それもまた「浮世離れしたほどの徹底的な保守主義者」の面目躍如難なのかもしれません。