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ショパン:バラード第3番 変イ長調, Op.47(Chopin:Ballade No.3 in A-flat major, Op.47)


(P)アンドレ・チャイコフスキー:1959年3月10日~12日録音(Andre Tchaikowsky:Recorded on Recorded on March 10-12, 1959)をダウンロード

  1. Chopin:Ballade No.3 in A-flat major, Op.47

ピアノによる物語



バラードというのは物語のことですから、これは基本的にピアノという「言語」を使った物語だと思います。
しかし、どういうわけか、音楽に物語性を持ち込むことは一段レベルが低くなると思う風潮がこの国にはあるようで、どの解説書を読んでも創作の動機となった物語の内容とこの作品の結びつきをできる限り過小に評価しようという記述が目立ちます。
とは言え、ショパンの研究家の間ではポーランドの詩人アダム・ミツキェヴィッチのどの作品と結びつきがあるのかという研究は熱心されてきましたので、今日ではおおよそ以下のような対応関係が確定されているようです。

  1. バラード第1番ト短調 作品23→「コンラード・ヴァーレンロッド」

  2. バラード第2番ヘ長調 作品38→「魔の湖」

  3. バラード第3番変イ長調 作品47→「水の精」

  4. バラード第4番ヘ短調 作品42→どうもこれだけがミツキェヴィッチの詩とは関係ないらしい


もちろん、それぞれの作品がそっくりそのままミツキェヴィッチの詩と対応しているという事はありません。そういう意味では、リヒャルト・シュトラウスの交響詩などのような「標題音楽」とは異なります。
しかし、優れたピアニストによる演奏でこの作品を聞くと、明らかに一つの物語を聞かされたような「納得感」みたいなものを感じ取ることができます。昨今の、指だけがよく回る若手ピアニストによる演奏を聴かされて何がつまらないからと言うと、この「物語性」みたいなものが希薄なことです。
ピアノだけは派手に鳴り響くのですが、聞き終わった後に何とも言えない取り留めの無さしか残らないのは実に虚しいのです。

あまり専門的なことは分からないのですが、「スケルツォ」や「バラード」のような作品は、明らかに始まりの時点から終わりが意識されています。それは、「ノクターン」などにおいて、いろいろなフレーズが取り留めもなく流れくるような雰囲気とは大きく異なります。
たとえば、バラードの1番で冒頭のユニゾンを鳴り響かせたときに、それはコーダの「Presto con fuoco」に向けた明確な一本の線で結びついていなければいけません。
ある方は、こんな風に書かれていました。

各動機、各音は前後のしがらみに囚われており、逸脱を許されない。沈鬱な主題が次々と現われ、それらは鬱積して怒濤をなし、ついには破滅的な終末を迎える。

なんと上手いこと表現するのでしょう。
明らかに、この作品を生み出す原動力となったのはミツキェヴィッチの詩によって喚起されたショパンの内なるイメージです。しかし、作品というものはそれが生み出され発表されてしまえば、それは作曲家の手を離れて一人歩きします。
即物主義は、一人歩きを始めた作品の恣意的解釈を戒めて、作曲家の内なるイメージに迫ることを要求しました。しかし、このような作品ならば、演奏家はスコアから喚起された己のイメージに忠実に演奏することも許されるでしょう。少なくとも、お約束ごとの上に胡座をかいて、ひたすらスコアを正確に音に変換する作業を聞かされるよりは百倍は幸福なはずです。

バラード第1番ト短調 作品23
自分でピアノを演奏する人のなかでは非常に人気のある作品です。
そこそこ難しくて、そしてその苦労に見合うだけの華やかな演奏効果が期待できます。

シューマンはこの作品に対して「彼の作品のなかでは最も優れた作品とは言えないが、そこには彼の天才性が現れているように思われます。」などと、ほめているのか貶しているのか分からないような言葉を残しています。

バラード第2番ヘ長調 作品38
最初は牧歌的で伸びやかな音楽が奏され、それがやがて静かに幕が閉じられます。「なんだこれは?とてもショパンの作品とは思えないような退屈で陳腐な作品じゃないか!!」と思ったとたんに「Presto con fuoco」でピアノが爆発します。後は聞いてのお楽しみ・・・です。

シューマンは手紙の中で「その熱狂的なエピソードはあとから挿入されたものらしい。ショパンがこのバラードをここで演奏してくれたとき、曲がヘ長調で終わっていたのを思い出す。ところが今度はイ短調に変わっている。彼はそのとき、このバラードを書くためにミツキェヴィチのある詩(「魔の湖」)から感銘を受けたと言っていた。しかし他面彼の音楽は詩人をしてそれに歌詞をつけさすような感銘を与えるだろう。」と書いています。

バラード第3番変イ長調 作品47

最も優雅な情緒に満ちていて、まさにパリの社交界の雰囲気を彷彿とさせる作品です。
シューマン曰く「フランスの首都の貴族的環境に順応した、洗練された知的なポーランド人が、そのなかに明らかに発見されるであろう。」
まさにおっしゃるとおりです。

バラード第4番ヘ短調 作品52

おそらく、ショパンの最高傑作の一つと言い切っていいでしょう。演奏する人にとってはさりげなく難しい箇所が多く、かといって華やかな演奏効果にも縁遠い作品なので、実に怖い作品でもあるようです。
ただし、気楽に聞くだけの人にとっては、これ一曲でその人が持っている表現力が分かってしまうので、実に面白い作品です。

非ホロヴィッツ的なピアノ演奏

アンドレ・チャイコフスキーというピアニストは私の視野には全く入っていなかったのですが、その「歌う」能力にはすっかり魅了されてしまいました。さらに、その歌う魅力をより大きなものにしているのは、彼独特の美しいピアノの響きです。
最初はアンドレ・チャイコフスキーなんて言う名前がいかにも怪しげで、もしもそれが「芸名」だったりしたら、それこそどこかの「バッタもん」みたいなピアニストかと思ったのですが、そんな下らぬ連想は見事に打ち砕かれました。調べてみれば、このアンドレ・チャイコフスキーと言う名前には彼の過酷な人生が刻み込まれたことを知り、その失礼という思いは二乗にも三乗に膨れあがったのでした。失礼m(_ _)m。

アンドレ・チャイコフスキーの本名はアンジェイ・クラウトハメル(Andrzej Krauthammer)なので、確かにアンドレ・チャイコフスキーは言ってみれば芸名みたいなものであることは事実です。しかし、その背景にはポーランド出身のユダヤ人であったために家族はほぼ全員が殺され、彼だけがポーランド人の家族に匿われて戦争を乗りこえたという悲劇的な背景がありました。
アンドレ・チャイコフスキーという名前は、その戦時下でユダヤ人であることを隠すために名乗った「偽名」だったのです。ちなみに、「Andrzej」はポーランドでは「アンジェイ」と読むのですが、偽名ではロシア風に「アンドレ」と呼んでいたそうです。

このあたりの悲劇性はどこかアンチェルに通ずるものがあるのですが、彼の場合はそれを10才にも満たない少年時代に経験したのです。
ですから、彼が本格的に音楽教育を受けることが出来たのは戦争が終わった10歳以降なのですが、それでもよほどの才能があったのでしょう、わずか2年後の12歳でパリ音楽院に入学が認められています。そして、ショパン・コンクールとエリーザベト王妃国際コンクールでの入賞が注目を浴びて世界各地で演奏会が行えるようになり、1957年にはRCAとの契約が実現します。

そんなアンドレ・チャイコフスキーの事をルービンシュタインは「彼の世代の中で最も素晴らしいピアニストだ」と賞賛したのですから、その期待度の大きさがしれます。

彼のピアノを聞いていてふと脳裏をよぎったのは、おかしな話ですが津軽三味線の高橋竹山でした。
よく知られているように、津軽三味線の魅力はその迫力ある演奏にあります。そして、その迫力は弦だけでなく胴の皮までに撥を叩きつけることで実現しています。
しかし、竹山はほとんど撥を胴に叩きつけることなく、弦を掬うようにして余分な雑音の混ざらない美しい響きで津軽三味線を演奏しました。そして、その美しい響きで紡がれる音楽こそが竹山の魅力でした。

これをピアノ演奏に置き換えてみるならば、通常の津軽三味線の演奏方法の典型がホロヴィッツでしょう。彼は、まさに鍵盤を一番下まで力強く叩きつけることでそう言う迫力を実現したように思います。
しかし、アンドレ・チャイコフスキーはそれとは真逆のひたすら力感を排した繊細な響きで音楽を構築しようとしているように聞こえます。
それはまさに竹山の世界です。

そう言う意味では、この時代のアメリカで活躍したピアニストの中で、ここまでホロヴィッツを意識しなかったピアニストは珍しいのではないでしょうか。そして、この「非ホロヴィッツ」的な演奏が、穿ちすぎかもしれませんが、ルービンシュタインが大いに気に入った理由だったのかもしれません。

しかし、そう言う響きで聞き手を魅了するには、とんでもない集中力と高い楽曲分析の能力が必要となるはずです。何故ならば、ある程度のいい加減さでも聞き手をとらえてしまうことの出来る「迫力」とい近道を放棄しているのですから。
それだけに、英グラモフォン誌が「完璧なまでに音楽的なピアニスト。途方もない集中力で難曲を弾き切っている」と絶賛したのは妥当な評価だったと言えます。

しかしながら、それほどのピアニストがどうして現在はほとんど忘れ去られているのかと言えば、それは彼がピアニストととして本格的に活動したのはRCAと契約していた2年間くらいで、その後は作曲家に転身してしまったからです。そして、その転身以後はピアノ演奏は次第に減っていき、当然の事ながら録音の数も多くはありません。さらに、1982年にわずか46才でこの世を去ってしまった事も大きな要因となっています。

それだけに、わずか2年といえども、RCAにある程度の録音を残してくれたことは幸運なことだったと言えます。