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ヨハン・シュトラウス:「こうもり」序曲(Johann Strauss:Die Fledermaus, Overture)
ヤッシャ・ホーレンシュタイン指揮 ウィーン国立歌劇場管弦楽団 1962年録音(Jascha Horenstein:Vienna State Opera Orchestra Recorded on December, 1962)をダウンロード
バカ騒ぎに隠された深刻なパラドックス
シュトラウスは晩年、相次ぐ身内の死によってすっかり創作意欲を失ってしまいます。そんなときに、オッフェンバックや妻ヘンリエッタのすすめでオペレッタを書き始めます。
自分自身が悲しみから立ち直るためだけではなく、皆も気軽に聴けてしかも底抜けに楽しいオペレッタを立て続けに作曲したのです。
現在ではこの「こうもり」だけが飛び抜けて有名です。
話のあらすじは以下の通りです。
【第1幕】
アイゼンシュタインは役人を侮辱した罪で今夜中に刑務所へ収監されることになっています。
召使いアデーレは舞踏会への招待状を受けるが休みが取れないと悩んでいます。
ロザリンデ(アイゼンシュタインの妻)は昔の恋人アルフレートとだんなが刑務所に入ったら会おうと約束をしています。
それぞれの思いが交錯する中へファルケ博士がやってきてアイゼンシュタインに舞踏会へ行こうと誘います。かわいい子が沢山集まると聞いたアイゼンシュタインは、舞踏会を楽しんでから刑務所に行こうとご機嫌になります。
ロザリンデは刑務所 に行くはずの夫が上機嫌なのを変に思うのですが、自分も恋人がやってくるのでアデーレに休みをやります。
アデーレは喜び勇んで舞踏会へ、そしてアイゼンシュタインも同じ舞踏会へ。
やがてアイゼンシュタインもアデーレもいなくなったところへロザリンデの恋人アルフレートがやってくるのですが、アイゼンシュタインを逮捕に来た刑務所長フランクに間違えられて連行されてしまいます。
実はフランクにも舞踏会への招待状が届いており、早く仕事を終わらせたかったためにその様な手違いが起こってしまったのです。
【第2幕】
オルロフスキー公爵の舞踏会ではファルケ博士がアイゼンシュタインに向かって「コウモリの復讐劇」という茶番劇を画策していました。ファルケはむかし アイゼンシュタインに恥をかかされ、今日はその復讐を狙っていたのです。
召使いアデーレは女優とほらを吹き、アイゼンシュタインはフランスの貴族ルナール公爵、刑務所長のフランクも同じくフランス貴族とほらを吹きます。
そこへ、捕らえられたアルフレートを釈放してもらうために刑務所長フランクを捜しに会場にやってきたロザリンデも、仮面に素顔を隠してハンガリーの伯爵夫人と称して登場します。
そして、その伯爵夫人の姿にのぼせあがったルナール公爵(アイゼンシュタイン)は自分の妻とも知らずに、おきまりの自慢の懐中時計を取り出して熱烈に彼女をくどき始めます。
ロザリンデはあきれつつもいい気分で夫の金時計を巻き上げます。
ファルケは「こうもり博士」の仇名をつけられたいきさつを話し、「こうもりの復讐」は明日わかると話を結びます。その話を聞いたオルロフスキーは「すばらしい、ブラボー!ファルケ君」と喜んで祝杯をあげます。
そんなこんなの大騒ぎの中で時計が朝の6時をうちます。
今夜中に刑務所に入らなければならなかったことをアイゼンシュタインは思いだし、大慌てで出ていき、刑務所長フランクも刑務所へ帰ります。
【第3幕】
そして刑務所。
泥酔状態のフランクにイーダとアデーレ姉妹は女優になりたいから、スポンサーになってくれとたのみます。
そんなフランクのところへ、アイゼンシュタインが出頭してきます。おかしい、先ほど彼は捕まえたはずと言われたアイゼンシュタインはアルフレートの姿を見て疑念をいだきます。
そこで、弁護士の服を借りて待ち受けていると、妻のロザリンデが駆け込んできて、アルフレートをなんとか釈放 してくれと、弁護士(アイゼンシュタイン)に頼み込みます。
さすがに平静を保てなくなったアイゼンシュタインは弁護士の服を脱ぎ、彼女の浮気を責め立てるが、彼女も先ほどの金時計を取り出して夫の浮気をやりこめます。
そこへファルケ博士がやってきてこれが「こうもりの復讐劇」とし、ロザリンデも「すべてはシャンペンのせい」と水に流します。
ついでに、アデーレもオルロフスキー公爵のパトロンで女優となり。すべてがハッピーエンドでめでたし、めでたしとなって幕はおります。
何とも馬鹿馬鹿しいどんちゃん騒ぎですが、実はこの裏にとんでもないパラドクスが隠されています。
このオペレッタでは全ての登場人物が仮面をかぶり自分を偽って登場します。
そんな中で唯一自分を偽っていないのが舞踏会の主であるオルロフスキー公爵であるように見えます。
6時の鐘が鳴り、朝の光の中にバカ騒ぎが溶けていきます。
オルロフスキーをのぞけば、その朝の光の中で全ての登場人物は仮面を剥がされて本当の自分に戻っていき、あとには味気ない「現実」だけが残るだけです。
その様に見えます。
しかし、実はその朝の光の中においても仮面を脱ぐことが許されなかった人物がいるのです。それが、唯一仮面をかぶっていないように見えたオルロフスキー公爵その人です。
このオペレッタの原点は、オルロフスキー公爵が同性愛者であるという視点です。
チャイコフスキーの例を持ち出すまでもなく、当時において同性愛者であるということが発覚することは身の破滅でした。
二日酔いの頭を抱えて刑務所でお互いの素性が分かってバカ騒ぎはハッピーエンドで終わる中で、一人オルロフスキーだけが物憂げな表情を浮かべているのです。
皆が仮面を脱ぎ捨てて本当の自分に戻っていく中で、彼だけはまたもやアデーレのパトロンとなって仮面をつけ続けるのです。
その様な視点を持ってこのオペレッタを見直すならば、ご陽気なだけのこのオペレッタに内包された深刻なパラドックスに気づかされるはずです。
ホーレンシュタインのウィンナーワルツ
ホーレンシュタインは1962年にリーダーズ・ダイジェスト(Reader's Digest)で、ウィンナーワルツをまとまって録音しています。- ヨハン・シュトラウス:「こうもり」序曲
- ヨハン・シュトラウス:ワルツ「酒、女、歌」, Op.333
- ヨハン・シュトラウス:常動曲, Op.257
- ヨハン・シュトラウス:アンネン・ポルカ, Op.117
- ヨハン・シュトラウス:ワルツ「ウィーン気質」,Op.354
- ヨハン・シュトラウス:皇帝円舞曲, Op.437
- ヨハン・シュトラウス:トリッチ・トラッチ・ポルカ, Op.214
- ヨハン・シュトラウス:ワルツ「春の声」,op.410
- ヨハン・シュトラウス:ワルツ「芸術家の生活」, Op.316
- ヨハン・シュトラウス:ワルツ「美しく青きドナウ」,Op.314
ホーレンシュタインのウィンナー・ワルツというのはいまひとつピンとこなかったのですが、実際に聞いてみれば実に素晴らしくて驚かされてしまいました。なんだか、アンドレ・ナヴァラの時といい、最近は同じようなことばかり書いているような気がします。
このワルツを聞いていると、なんだか自分自身が気持ちよくワルツのステップを踏んで踊っているような気分になってきます。もちろん、私自身はダンスなどとは全く無縁な人なので全くの妄想に過ぎないのですが、ホーレンシュタインの音楽には、聞く人にそのような妄想を抱かせる力があります。
それは、彼のワルツがそういう妄想を抱かせるほどに美しくてなめらかな曲線によって造形されているからなのでしょう。
そして、もう一つ思い浮かぶ妄想は、フィギア・スケートのスケーティングのように自分の思うがままに美しくて完璧な曲線を描けているような錯覚です。
ワルツはどれもこれもホーレンシュタインという職人の手によって極限まで滑らかに磨き上げられています。そして、その手によって描き出された曲線と肌触りのなんと優美でやさしいこと!
しかし、磨き上げるといっても、それは例えばセルとクリーブランド管のようなクリスタルなものとは異なります。磨き上げられていることは磨き上げられているのですが、そこにはクリスタルな精緻さではなくて、どこまでいっても人肌が持つ温かさを失わないのです。
たしかに、ホーレンシュタインはセルと同じようにオーケストラを完ぺきにコントロールして、音楽的表現においていかなる曖昧さも残していません。
しかし、セルのウィンナーワルツを聞いているとまるで士官学校の舞踏会のようだと感じたのですが、ホーレンシュタインの場合はやはりやんごとなき上流階級の所公開の舞踏会です。もちろん、そんな舞踏会などとは全く縁のない人生だったのですから、それもまた全くの妄想なのですが、きっとそれほど間違ってはいないように思います。
そこには、オケがウィーンのオケだということもうまくプラスに作用しているのでしょう。
とはいえ、あの性悪のオーケストラをその持ち味を最大限にいかしつつ、よくぞここまでコントロールしたものです。
ホーレンシュタインといえばマイナーな小道を進んだ指揮者ではあるのですが、決して見落としてはいけない指揮者の一人だと再確認させられました。