クラシック音楽へのおさそい~Blue Sky Label~



FLAC データベース>>>Top

ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第1番 嬰ヘ短調, Op.1(Rachmaninov:Piano Concerto No.1 in F-sharp minor, Op.1)


(P)レナード・ペナリオ:アンドレ・プレヴィン指揮 ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団 1964年10月2日録音(Leonard Pennario:(Con)Rene Leibowit London Symphony Orchestra Recorded on October 2, 1964)をダウンロード

  1. Rachmaninov:Piano Concerto No.1 in F-sharp minor, Op.1 [1.Vivace - Moderato]
  2. Rachmaninov:Piano Concerto No.1 in F-sharp minor, Op.1 [2.Andante cantabile]
  3. Rachmaninov:Piano Concerto No.1 in F-sharp minor, Op.1 [3.Allegro scherzando - Maestoso]

忘れてしまいたかった作品



彼にとっては規模の大きな作品としてはこれが一番最初に完成させたものであり、初演においてもそれなりの評価がなされて、作曲家としての順調な船出を飾った作品でもあります。
通常このような作品は作曲家にとっては感慨深いものであり、それなりに大切にしたい作品だと思うのですが、なぜかラフマニノフは「できることなら忘れてしまいたい3つの作品」の中の一つにあげています。

残る二つは交響曲第1番とジプシーの主題による奇想曲なのですが「それらの作品を全て書き直したいと思っています」と友人宛の手紙の中で述べています。

ただし、実際にラフマニノフが書き直したのはこの協奏曲第1番だけした。
ロシア革命の混乱を避けて亡命する直前の1917年のことです。

第1交響曲に関してはかなり強い意欲を持っていたようなのですが、革命の混乱の中で自筆スコアを失ってしまい、その思いは果たすことができなかったようです。

さてその改訂作業なのですが、部分的な手直しと言うよりは「改作」と言った方がいいようなものだったそうです。
この辺はあまり詳しくもないし興味もないので他のウェブサイトからの受け売りなのですが、第3楽章などは全くの別物になってしまっているそうです。
こういうことを書くとラフマニノフファンには怒られそうなのですが、どうも彼の音楽はとりとめもなく茫漠とした雰囲気を持っています。その事は彼自身も気にしていたようで、例えば自作の協奏曲第4番を評して「この作品は恐らく『指環』のように何晩かに分けて演奏しなければならないでしょう」などとぼやいているほどです。

ですから、改訂作業というのは基本的に整理とカットです。
その結果、改訂をすればするほどコンパクトで引き締まってくるのですが、そのダイエット作業の中で何か大切なものもそぎ落としているような気がしてなりません。
これは、手つかずで発見された交響曲第1番の何とも言えない異形のたたずまいと比べてみれば、その辺のニュアンスは了解していただけるのではないでしょうか?

結局はこの忘れてしまいたかった作品は、ラフマニノフ自身の手によって入念なダイエットと美容整形で美しくよみがえり、現在ではほとんどその形で演奏されるようになりました。
私としては原典版による演奏は聞いたことがないので、一度は整形前の姿も拝見したいものだと思います。

常に「軽み」を失わない

「レナード・ペナリオ」というピアニストは小澤征爾が伴奏を務めた時のソリストとして一度取り上げた時に初めて出会ったのですが、恥ずかしながら「レナード・ペナリオって、誰れ?」というかんじでした。
調べてみれば、12歳でグリーグのピアノ協奏曲をダラス交響楽団と共演して神童として名を馳せたピアニストらしいです。さらに、「ラフマニノフ追悼演奏会」で協奏曲の第2番も演奏し、その後は彼の「ピアノ協奏曲全曲」と「パガニーニの主題による狂詩曲」の録音を初めて成し遂げた人物として記憶されています。

リヒャルト・シュトラウスの「ブルレスケ」の最後のカデンツァなどを聞けば、大変なテクニックを持ったピアニストであることが分かります。
20歳前後にしてその才能を全面的に開花させ、その後も「只の人」になることなく長く活動を続けてきたことがよく分かる録音でした。

しかし、何故か今のこの国から眺めてみれば、少なくない人(私も含めて)にとっては「レナード・ペナリオって、誰れ?」というかんじになっているのですから不思議です。
それも、早くに指揮者に転向したとか、教育活動に舵を切ったとか、さらには早くして燃え尽きたというわけでもなく1990年代まで精力的に活動していたらしいので、不思議と言えば不思議です。

ただし、彼の録音をある程度まとめて聞いてみると、何となくその理由が分かるような気がします。
それは、ソリストとして必要な「オレがオレが!」という我欲が非常に少ない人だったと言うことです。
特に、室内楽などになるといつも一歩引くような感じで全体のバランスをとることに力を尽くし、自分が目立とうという気持ちは全くなかったことがよく分かります。
ハイフェッツが室内楽のパートナーとして彼をよく指名したらしいのですが、「なるほど、さもありなん」と思わさせられたものです。

そして、それは協奏曲のソリストとしてもスタンスは変わらず、己のテクニックを「どうだ!」と言わんばかりに誇示することはなく、常にどこか飄々とした感じで、難しいところもさも簡単そうにサラリと演奏してしまうのです。
言葉をかえれば、常に軽み(「かろみ」と読んでください)を失わないのです。

しかしながら、そういう軽みのある楽しい音楽として演奏をしてくれる人は、この国では何故か軽く見られてしまうのです。
しかし、年を重ねてくると、そういう演奏に心安らぐのです。

それは彼の代名詞とも言うべきラフマニノフであっても変わることはなかったようです。