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ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第4番 ト短調, Op.40(Rachmaninov:Piano Concerto No.4 in G minor, Op.40)
(P)レナード・ペナリオ:アンドレ・プレヴィン指揮 ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団 1964年10月3日録音(Leonard Pennario:(Con)Rene Leibowit London Symphony Orchestra Recorded on October 3, 1964)をダウンロード
- Rachmaninov:Piano Concerto No.4 in G minor, Op.40 [1.Allegro vivace]
- Rachmaninov:Piano Concerto No.4 in G minor, Op.40 [2.Largo]
- Rachmaninov:Piano Concerto No.4 in G minor, Op.40 [3.Allegro vivace]
ライ麦のささやき

ラフマニノフはロシア革命の混乱でアメリカに亡命した後パッタリと創作の筆が止まってしまいます。それは、生きていくために創作活動よりはコンサートピアニストとしての活動を優先させなければならなかったからです。
しかし、原因はそれだけではなかったようです。
有名なエピソードがあります。
友人のメトネル「どうして作曲しないのか?」と聞かれたラフマニノフは次のように答えたと言われています。
「どうやって作曲するというんだ、メロティーがないのに… それに長い間ライ麦のささやきも白樺のざわめきも聞いていないんだ」
ロシアという根っこから引き抜かれたラフマニノフには霊感がふってこないと言うことなのでしょうか。
それでも、この友人からの言葉に目が覚めたのか、ラフマニノフは再び創作活動に取りかかります。ただし、まったく新しいものを一から書き上げるのでなくて、亡命前に着手しながら放置されていた作品をもう一度取り出して完成させます。それが、この協奏曲第4番です。
初演はラフマニノフ自身のピアノとレオポルト・ストコフスキー指揮フィラデルフィア管弦楽団によって1927年3月18日に行われました。
ブーイングはなかったもののあまりパッとした反応はかえってきませんでした。理由は、とにかくとりとめのないほどの長さにあることは明らかでした。
ラフマニノフはメトネルに対する手紙のな中で「この作品は恐らく『指環』のように何晩かに分けて演奏しなければならないでしょう」とぼやいています。
そして、またまた改訂作業が始まる事になります。
初演のすぐ後にバッサリという感じで大幅なカットを行っているのです。しかし、それでも満足しなかったラフマニノフは最晩年の41年にも大幅な改定を行ってそれが現行版となっています。
オーケストレーションを研ぎ澄まし、構成を約25分前後に大幅に凝縮したのでした。
- 第1楽章: Allegro vivace (ト短調)
旋律的な前奏なしに、オーケストラの力強い全奏に続いてピアノが上行するダイナミックなテーマで幕を開けます。
従来の第2番・第3番に見られた重厚な旋律の展開というよりも、短くシャープな動機が刻々と表情を変えていくモダンなソナタ形式です。
中盤で見せるロシア的な哀愁と、新古典主義的な鋭いリズムの対比が見事です。 - 第2楽章: Largo (ハ長調)
極限まで削ぎ落とされた簡潔な美しさを持つ緩慢楽章です。
主題のモチーフがイギリス民謡「マザー・グース」の『マザー・ハバード(Old Mother Hubbard)』や『三匹の盲目ネズミ(Three Blind Mice)』に酷似していることがよく指摘されます。
シンプルだからこそ、繊細な和声の移ろいと旋律の残り香が強く心に響きます。 - 第3楽章: Allegro vivace (ト短調 - ト長調)
非常にメカニックで推進力に満ちたロンド風味のフィナーレです。
1920年代のアメリカで触れたジャズのイディオム(シンコペーションやブルー・ノート的和声)が色濃く反映されており、疾走感あふれる展開を見せます。
終盤にかけては極めて高度なピアニズムが要求され、華やかかつ鮮やかに全曲を締めくくります。
常に「軽み」を失わない
「レナード・ペナリオ」というピアニストは小澤征爾が伴奏を務めた時のソリストとして一度取り上げた時に初めて出会ったのですが、恥ずかしながら「レナード・ペナリオって、誰れ?」というかんじでした。調べてみれば、12歳でグリーグのピアノ協奏曲をダラス交響楽団と共演して神童として名を馳せたピアニストらしいです。さらに、「ラフマニノフ追悼演奏会」で協奏曲の第2番も演奏し、その後は彼の「ピアノ協奏曲全曲」と「パガニーニの主題による狂詩曲」の録音を初めて成し遂げた人物として記憶されています。
リヒャルト・シュトラウスの「ブルレスケ」の最後のカデンツァなどを聞けば、大変なテクニックを持ったピアニストであることが分かります。
20歳前後にしてその才能を全面的に開花させ、その後も「只の人」になることなく長く活動を続けてきたことがよく分かる録音でした。
しかし、何故か今のこの国から眺めてみれば、少なくない人(私も含めて)にとっては「レナード・ペナリオって、誰れ?」というかんじになっているのですから不思議です。
それも、早くに指揮者に転向したとか、教育活動に舵を切ったとか、さらには早くして燃え尽きたというわけでもなく1990年代まで精力的に活動していたらしいので、不思議と言えば不思議です。
ただし、彼の録音をある程度まとめて聞いてみると、何となくその理由が分かるような気がします。
それは、ソリストとして必要な「オレがオレが!」という我欲が非常に少ない人だったと言うことです。
特に、室内楽などになるといつも一歩引くような感じで全体のバランスをとることに力を尽くし、自分が目立とうという気持ちは全くなかったことがよく分かります。
ハイフェッツが室内楽のパートナーとして彼をよく指名したらしいのですが、「なるほど、さもありなん」と思わさせられたものです。
そして、それは協奏曲のソリストとしてもスタンスは変わらず、己のテクニックを「どうだ!」と言わんばかりに誇示することはなく、常にどこか飄々とした感じで、難しいところもさも簡単そうにサラリと演奏してしまうのです。
言葉をかえれば、常に軽み(「かろみ」と読んでください)を失わないのです。
しかしながら、そういう軽みのある楽しい音楽として演奏をしてくれる人は、この国では何故か軽く見られてしまうのです。
しかし、年を重ねてくると、そういう演奏に心安らぐのです。
それは彼の代名詞とも言うべきラフマニノフであっても変わることはなかったようです。